その2 赤 石

『日本人の認識の誤りを指摘する』 神戸にあった古代の難波     梅村伸雄 会員
 史学の先輩たちは、短絡的にもいにしえの地名を現在の地名に引き移しているようであるが、まさに学問の違変というべきか、昔も今も地名は変わらないと決めつける愚かさか、面倒な作業にかかわっていられないという横着さだろうか、異地同名の土地に対して一顧だにせず、「おかしいぞ」という感性さえも働いていない、これでは地名の考証がおろそかにされていると謗られても致し方がないであろう。
 そこで歴史に大きな足跡を残し、後に明石と呼ばれた赤石の土地が、歴史の謎を解く重要な鍵を握っているところから、先ずはいにしえの明石の土地をお教え致そう。
 奈良時代の高僧行基が定めたと伝えられる摂播五泊は、河尻泊(かわじりのとまり=神崎川河口付近)、大輪田泊(おおわだのとまり=神戸市兵庫区)、魚住泊(うおずみのとまり=明石市江井ケ島港)、韓泊(からどまり=高砂市福泊)、檉生泊(むろうどまり=揖保郡室津)の五泊であり、これらが一日の航程で辿り着ける船の要所になっている。

 ところで、この摂播五泊の中には、万葉の歌をはじめとして多くの和歌が、良港と称える有名な難波津と明石大門が入っていないが、皆さんはそれにお気付きだろうか。
 大阪の難波津が摂津の国であり、遣唐使船や遣新羅使船が泊り、諸国の防人(さきもり)たちが歌を詠みかわした難波津ならば、当然五泊の中に含まれなければならない。また万葉集にも数多く詠まれた明石大門も、難波津同様、数に入れなければならないのであるが、行基が書き漏らしたわけでもあるまいし、何故数に入れなかったのであろう。
 鎌倉時代の『伏見天皇宣旨案』には、「檉生泊より兵庫嶋まで東西二十余里、上下に往来する小舟は、風に任せて帆を揚げ、潮によって向きを変えるが、日暮れて遠く船旅する時、悪天候などの時には、航行に支障をもたらし、多くの船が遭難している」と記し、「ただただ魚住泊の修復を待ち望むなり」と書き残して、明石の大門には一言も触れていない。
 また、延喜14年(914)、醍醐天皇の可奉封事詔(かほうふうじしょう)に応じた三善清行(みよしのきよゆき)の『意見封事(いけんふうじ)』にも、「朝廷は大輪田泊のみを修造して長く魚住泊を廃せり。しかし公私の船は韓泊より大輪田泊に至るまでの二日の行程を一日一夜にては行けず、冬季風の急に吹く暗夜には行く先も岸の遠近も分からぬにより、帆を落とし梶の方向を失い漂没するため、これを愁うものなり。この如くして毎年船が漂い覆るもの百艘を過ぎ、人の溺れ死ぬもの千人に越えたり」と記しているが、檉生泊および韓泊と兵庫嶋(大輪田泊)の間にある筈の明石の泊りは、何故か避難港として取り上げられていない。さてさて、誰がこれらの重要な疑問を追求されたであろうか。
 結論から申せば、津の国の難波津と明石大門は大輪田泊の異名であった、と言う単純な理由であり、少々考えを巡らせばこの謎は解けた筈である。そこで、謎解きの原点である明石の土地から話を進めねばなるまい。
 『播磨国風土記逸文に書き記された記事は、播磨国風土記に曰く、明石の駅家(うまや)に駒手の御井があった。難波高津宮天皇仁徳天皇)の御世のこと、井の上に生えていた楠の巨木は、朝日には淡路嶋を隠し、夕日には大倭嶋根(やまとしまね)を覆った。この楠木を切り倒して舟を造ると、その舟は飛ぶが如く速く走り、一漕ぎすれば七浪を越えたので速鳥と名付けた。朝夕この舟は、天皇の御食事に供える御井の水を運んでいた。ある朝、御食事の時間に合わなかった。そこで、歌を作り御料の水を運ぶことを止めた。
  住吉の 大倉向きて 飛ばばこそ 速鳥と云はめ 何か速鳥
 ここに記された楠木は、『続歌林良材集』では高さ百丈(300メートル)の巨木と認められているが、朝には楠木の影を淡路島に落し、夕方には影を生駒の高安山に落としていたといわれ、『古事記』にも記される有名な話である。
 ところがこれらの話は、いにしえの明石の土地が、淡路島の東にあることを我々に教え、中世の学者もそれを肯定していたのであるが、現代の学者たちは気付かぬ振りをしているのか、面倒なことにかかわりたくないのか、ほとんどの方々が、頑として昔の明石の土地は淡路島の西にある現在の明石であるとして、譲ろうとはしない。
 源氏物語に、「えも言はれぬ入江の水など、絵に書かば、心の至り少なからむ絵師は、書き及ぶまじと見ゆ」と表現された程の景勝の地である明石が、現在の土地ではなく、他の土地であったとは認めたくない気持ちも分からぬではないが、それでは現代の人々が不勉強の塊であったと謗られるので、酷ではあるが、敢えていにしえの明石の土地を白日の下に晒してみよう。
 寛政11年(1799)から享和元年(1801)にかけて、お江戸の西に散在する景勝の地を訪ね、これを描き続けて『山水奇観』なる本を世に出した淵上禎(旭光)という絵師がいた。この絵師が描いた地に、源氏と明石の美しい恋物語の舞台、明石浦が含まれているが、「摂津新清水」は淡路島の東に明石を描き、「播磨明石浦」の絵は六甲連山の南に明石の地を描いて、『播磨国風土記』や『古事記』の裏付けをしている。
 
 また、『一遍上人絵詞伝直談鈔』に載っている、正安元年(1299)の話では、一遍上人が長い布教の旅の末、兵庫島に渡ってこられ、観音堂を宿とされた時のこと、兵庫について次の様に語っている。
 「兵庫は摂津の国の矢田部郡にあり、福原の新都はここにあった。太政大臣平清盛が応保年中(1162)ここに島を築かれたため兵庫島と呼ぶ」と記し、「七月十八日に明石浦に渡る。ここは誰もが州の芦や夜の雨に涙を流し、秋風に情を催す所である。この折は、兵庫より迎えの船をよこして下された。兵庫は明石に与(くみ)する、淡路から海陸共に五里を隔て、その日の内に着く距離である」。
 つまり、兵庫も明石も同じ土地である、と記されるが、維新の志士菊池溪琴(けいきん)の詠む幕末の頃の漢詩も、同じことを伝えている。
    棹歌              菊池海荘
  月落潮来赤石間 潮頭初月似弓湾 孤舟濺尽鮫人涙 青了楠公墓畔山 
空洋風尽艇行遅 漁笛悠揚渡翠熙 仏母峰遙煙髻淡 一痕新月好描眉、
 月傾き赤石の浦に潮満つ、岸辺は三日月に似て弧をなす、一人舟に乗りて悲嘆の涙に暮るる、青き楠公の墓、山のほとりに見ゆ、空は広々として風止み舟脚遅々たり、櫓のひびき悠揚として静波を渡る、摩耶なる峰遥かに立上る一筋の煙り、一痕の新月眉を描くに似たり。
 さて、この摩耶山の麓の情景を詠んだ場所は、楠公の墓の見える川崎の州の辺りであり、ここでも、一遍上人が指摘した如く兵庫の辺りを「赤石」つまり「明石」と呼んでいるが、詩に詠まれた「楠公の墓」については、『西摂大観』が次のように兵庫の近くに在ることを伝えている。
 湊川を渡って東堤に出れば並木道あり、西国街道と呼ぶ、水田菜園が左右に広がり、西北を仰げば摩耶再度の山脈うねり福原の荘を抱く、村童牛の背に跨り、農夫鋤で耕すは、現今の有馬道多聞通一体の地なり、楠公墓ほとりの村茅葺きの家三々五々ありて、かっては三軒屋と呼ばれし処、旅人が楠公の墓はと問へば、街道より北の方坂本村の野道を辿り五六町、松樹の下に堂ありと、ここに至れば油灯暗く、墓前に額ずけば不覚無量の感慨に駆られる。
 ここに紹介した詩と文は、維新から明治にかけての神戸の情景であり、侘しさを感じさせる静かな片田舎の風景であるが、何故か神戸は昔から物思い種を提供する土地であり、それだけに数多くの歴史の埋もれを感じさせる。
 この様に明石が兵庫の土地を指すならば、明石大門とは和田岬の内懐にあった湊川の河口であり、人麻呂の詠んだ万葉集の歌が、「ふむ、ふむ、そうであったか」と理解される。
  天離る 鄙の長道を 恋ひ来れば 明石の門より 家のあたり見ゆ
 都から離れるへんぴな長い道程を、故郷への思いに捕われながら旅をしていると、明石の水門(みと)より、家のあたりの山々がひょっこり見えた、暫くの別れなのだなぁ、と都や家族への懐かしみを詠んだ歌は、次の情景を思い浮かべれば理解し易い。

 視界の良く利く晴れた日に、和田岬から大和の方を眺めると、高安山二上山との間から、人丸の住む巻向山と神と崇める三輪山の姿がかすかに見えるが、それは人丸にとって故郷の山々が旅の無事を祈るように、そっと見送っている姿に思えるのであり、歌にとどめねばならぬ感無量の情景であった。
 この情景が味わえる兵庫の明石と、味わいたくとも大和の山々が全く見えない現在の明石とを、取り違えたままでは歌の持つ味わいが理解できない。
 そこで、今一つ味わっていただきたい漢詩がある。享保4年(1719)、吉宗の襲職を祝う朝鮮来聘使が来日した時のことではなかろうか、彼等と筆談ができ親交も深かった梁田蛻巌(やなだせいがん)が次の詩を詠んでいる。
    赤石浦にて韓使舟の兵庫に進むを観る 
  浦口の秋、煙望分たず、楼船の簫鼓、遠に相聞く
  南天の雲は盡き千帆去る、樽前は鄂君を見る路無し 
 この「赤石浦にて韓使舟の兵庫に進むを観る」と題した歌は、赤石浦の入口和田岬は、すでに秋の風情であり、うすい霧が立ち込め、船影ははっきりしないが、朝鮮使の楼船の笛太鼓の音が遠くに聞こえる、南の空が晴れ渡った頃、使節船に付き添った無数の船は立ち去ったが、歓迎の祝典に集まった大勢の人により、樽前に居る鄂君に会うこともできない、と朝鮮来聘使を迎える兵庫の賑わいが詠まれているが、ここでは江戸時代に於いても赤石浦に兵庫の泊りがあったと教え、菊池海荘の漢詩からは維新寸前まで兵庫に赤石の呼名が残っていたことが知れる。
 さて、兵庫の周辺が赤石と呼ばれ、後に明石となった資料は数々あるが、それは逐次話をするとして、兵庫の地に聳えた楠の巨木で造られた船を、『古事記』では「枯野」と呼び、この船は淡道島(あはぢ)の寒泉(しみず)を酌み天皇の飲料水に供したと記している。
 特にこの問題を取り上げたのは、仁徳天皇の高津宮の所在を、毎朝毎夕船で通える「住吉の大倉」と教え、仁徳天皇御用達の水の所在を「明石」または「淡道島」と記していることであるが、中世の学者達はこれについて異を唱えず、古記録をそのまま残していることであって、これは重要なことであり、皆さんの記憶に先ずは止どめて戴きたい。
 次いで、天皇の御膳に御井の水を運んだ話の後日談として、『明石名勝古事談』に「仁徳天皇御膳水」の話が残されているので、それを紹介しよう。
 この御膳水は野中の清水なり、この清水は印南野に在り、仁徳天皇まだ皇子たりし時、遊猟のみぎり始めて見つけたまいしより、めでたい清水として世に知られ桓武天皇の時、美作守泰下丸備前より帰る時、この水を汲みて呑みたり、後京都に遷り病に臥せし時、この水を印南野へ汲みにやり、途中にて水ぬるくなりたれども良き水と思うて飲みし故、病気全快したと云う。仁徳天皇難波に宮居し給う後、はや鳥という船にて毎日この清水を汲ませて宮中へ運び御膳水とせらる。
 ここでは御膳水を印南野の野中の水と称し、天皇御用達の水としてまたまた印南野が名乗りを挙げているが、明石・淡道嶋・印南野のどれが御井の話を伝える、本当の伝承地であろうか。後に考謙天皇天平宝字2年(758)三月、入唐使の乗る船の内、播磨と速鳥の名をもつ船は、これを佳名の船として、それぞれに従五位下を授け、全ての船の上に位する船として錦の冠を与えているが、それ程までに「播磨」と「速鳥」は、わが国にとって大きな意味合いを持つものであろうか。
(つづく)