境界争いの歴史的考察(3)

                                中西輝夫 会員
池田家 その3
 輝政は慶長十七年八月従三位参議となり、松平と称します。大阪冬の陣の前年慶長十八年正月二十五日(一六一三)姫路城で亡くなり正三位を追贈されました(五十歳)。結果的には嫡子松平武蔵守利隆が家督のうち四十二万石を相続しますが(のこり九万八千石は忠継に与える)、これより以前、備前国は家康の外孫忠継に下賜されていた。しかし、輝政は慶長八年より幼少(五歳)の忠継の代理として家康の許可を得て利隆を岡山城にいれ、備前二十八万石を治めさせていました。利隆は慶長十年従四位下侍従に任官、慶長十二年六月二十日武蔵守となり、松平姓を貰い、秀忠の養女(榊原康政の女)と結婚、十四年光政が生まれました。
 慶長十三年、戦乱を生き抜いた養徳院が九十四歳で利隆のもとで大往生します。
慶長十八年父輝政逝去。利隆は相続のため姫路へ帰りますが、元和二年(一六一六)京都の京極丹後守(妹婿)邸で病のため三十三歳で亡くなりました。
 一方、輝政の継室、督姫は元和元年二月五日、二条城で逝去(一説では備前において)知恩院に葬られます(五十一歳)。戒号は良正院智光、元和三年に輝政夫婦をはじめ子息たちの霊を弔うため、高野山に石塔を建て位牌を納め祀りました。この時、建部政長に依頼し芦屋から石を切り出したが、本庄からの境界侵害申し立てで、西宮の代官が検分し芦屋に軍配を上げています。
 池田忠継(幼名藤松丸、三郎五郎)慶長四年八月十八日伏見邸で生まれる。母は督姫です。慶長八年二月六日五歳の時、備前国二十八万石を貰う。十三年台徳院秀忠公の御前にて元服従四位下、松平忠継と称する。十八年輝政の死後播州赤穂など九万八千石をあわせ、三十七万八千石となる。元和元年二月二十三日岡山城で卒。年十七歳。
 高野山金剛院、悉地院に位牌石塔あり、弟忠雄が遺領を継ぐ。
 池田忠雄 (幼名勝五郎、忠長)慶長七年十月二十八日、姫路城で生まれる。母は督姫。十三年三月、秀忠公の前で元服従四位下新次郎忠長と称す。後忠雄と改め、十五年四月淡路六万石を賜り、参議正四位下宮内少輔に任官。元和元年兄忠継の遺領を相続。寛永九年逝去。嗣子光仲は幼少のため因幡の光政と交代し、その地で子孫は続く。
 池田光政(幼名新太郎、幸隆)母は榊原康政の女(秀忠養女)
 慶長十四年四月四日(一六○九)生まれ。元和二年八歳で父利隆の遺領相続。同三年幼少につき因幡伯耆三十二万石に国替え、十歳で入国する。十五歳、従四位下、左近衛権少将。二十歳のとき本多忠刻の娘、勝姫(秀忠の養女で、母は千姫こと天樹院)を娶る。寛永九年(一六二二)二十四歳の時、岡山藩主の忠雄が死亡、世子勝五郎(光仲)は幼く、光政が交代し備前へ入る。以後明治に至るまでその子孫は続く。岡山では政治経済に功績を残し、藩政を整え善政を布き、輝政の生まれ変わりとされ名君の名も高い。天和二年(一六八二)に七十三歳で没す。
 池田政虎 輝政の側室の子。天正十八年岐阜で生まれる。慶長十五年淡路由良城の城代を勤め、慶長十八年池田加賀と名乗り、家老として因幡へ移る。浦富に居住。寛永十二年七月京都で亡くなります。(四十六歳)
 大阪の陣には、池田利隆が一族の大将で関東方として参戦します。
 家康の派遣した戦目付城和泉守殿の指図で実践には参加しなかったため、大阪落城後、家康から喚問された時、家老の番大膳(長久手で輝政の馬の口取り)を釈明に登城させ、簱下の阿部四郎五郎殿ご承知の如く、目付け指図どおり兵を動かさなかったと徳川に対し、違背の心なき旨を述べ、家康も了承し池田の家名を存続させることができました。
 元和元年、五月八日大坂城の焼け跡からは秀吉が残した黄金二万八千枚、銀二万四千枚が発見されています。
   (つづく)