その6 名児の浜の赤石

『日本人の認識の誤りを指摘する』 神戸にあった古代の難波     梅村伸雄 会員
 では、名児の浜の名の由来は何かと言えば、晩年の定家が「名所」と題して、いにしえの悲しい出来事を詠んでいる。
  なごの海人の 潜(かず)く白玉 たまさかに 出でて帰らぬ 闇路ともがな                   
 名児の海人が潜って偶然にも拾い上げた白玉であったが、海人にとっては生きて帰ることのない闇路になってしまった、と言う意味であり、『紀』に「阿波の大真珠」と名付けられた事件である。
 允恭(いんぎょう)天皇の御代14年の秋9月12日、天皇は淡路島に猟に行かれたが、大鹿・猿・猪など獲物はたくさんいるのに、一日中狩りをしたが一匹もとれなかった。これを不思議に思い占いをすると、「明石の海底に真珠がある。その珠を供え祀れば獲物が得られるだろう」とのお告げが出た。そこで近隣の海人を集めて探させたが、海が深くて底まで潜れない。
 この時に呼ばれたのが、阿波国の長邑(ながむら)の潜りの名人海士男狭磯(あまおさじ)である。彼は60尋の海底に潜り大鮑(おおあわび)を抱えて浮上がったが、そのまま船端で息絶えてしまった。この大鮑の腹から出た桃の実ほどの真珠を神に供えると、多くの獲物を得ることができた。そこで、男狭磯の死を惜しみ、墓をつくり手厚く葬った、と『紀』に書かれている。

 ここには淡路島に天皇行幸された時の話が認められているが、事件の起こった浜辺は和田岬の内側である。
 これは「その3 赤石八景」の中でも紹介したように、和田岬を語ると淡路島または淡道嶋が必ず顔を覗かせるのは、和田の州に淡道嶋があるからであり、神話の「国生み」に関わる重要な土地なので、伝承の誤りと簡単に片付けられては迷惑千万、後に改めて詳述させて頂くことにする。
 『紀』に記された、海士男狭磯の死を惜しみ墓を造った、と言われる場所については、残念ながら憶測の域を脱しないが、一応紹介させて頂くと、JR兵庫駅の北側にある会下山は、大和法隆寺の「流記資財帳」に「宇奈五丘」と記されている。この「宇」を大きさと解釈すれば、「宇奈五丘(うなごのおか)」は「偉大な名児の丘」と解読されるのであり、会下山こそ海士男狭磯を祀つる墳墓があった丘ではあるまいか。そして、その丘は、伝説を秘めた名児の浜を眼下にする名望の丘でもある。
 さて、名児の浜が和田岬の内側にあったとなると、神戸の歴史に様々な光を与え、歴史の発掘は急速に進展する。
万葉集    覊旅の歌          大伴家持
  名児の海を 朝漕ぎ来れば 海中に 鹿子ぞ鳴くなる あはれその鹿子
 名児の海に、朝舟を漕ぎ寄せると、海の底で鹿が鳴いているが、その鹿の姿は哀れでならない。
頼政集    時々見恋          源 頼政
  なごの海 しほひ塩みつ 磯の石と なれるが君が 見えかくれする
 名児の海では、干潮や満潮時には、磯の石となった貴方の姿が見え隠れしている。
 右の二つの歌の背景には、『摂津風土記逸文の、次の話が元になっている。
 摂津の国の風土記に曰はく、雄伴の郡に夢野あり。父老(おきな)の相伝えて言うには、昔、刀我野(とがの)に牡鹿あり、その妻の牝鹿はこの野に居り、その妾(おむなめ)の牝鹿は淡路の国の野嶋に居りき。かの牡鹿しばしば野嶋に往きて、妾と相愛(うるは)しみすること比(たぐ)いなし。牡鹿、妾の所に来宿りて、明くる朝帰る。牡鹿、妻に語りしは、「この夜夢見る、吾が背に雪積るを見き。また、すすきと言う草生うを見る。この夢は何の兆(さが)ぞ」と言う。その妻、夫のまた妾の所に向かうを憎み、偽りて曰はく、「背に草生うは、矢、背の上を射む兆なり。また雪積るは、白塩(あわしお)を肉(しし)に塗る兆なり。汝(いまし)、淡路の野嶋に渡らば、必ず舟人(ふなびと)に遇(あ)いて、海中に射殺されなん。ゆめ、また往きそ」と言いき、その牡鹿、恋の想いに勝(た)えずして、また野嶋に渡るに、海中にて行舟に逢い、終に射殺されき。故に、この野を名付けて夢野と曰う。
この話とそっくりな話が播磨風土記逸文にも載っているが、いずれの話も摂津と播磨の国境にあたる兵庫の話として紹介され、恋に夢中になった雄鹿が淡路の野島の恋人に逢いに行く途中、狩人に射殺された話になっている。
 播磨風土記では、恋に夢中になったのが丈夫(ますらお)であり、小豆島(あずきじま)の妖艶な女性に逢いに行く時に鹿に乗って行ったが、その鹿が射殺され、丈夫が溺れ死ぬことになっている。そして、
その鹿は石となれり。故にこの地を明石と言う。かの丈夫の行路に今尚この石を見る。鹿之瀬とも呼ぶ。一説に、鹿の化して血石と為る、故に赤石と号(なづ)く。
と結び、赤石(明石)の地名はこの赤石による、と由来を紹介している。
 これらの話の元になったのは、海中に横たわる鹿の姿をした血色の石であり、その石に付いて『播州名所巡覧』には、
赤石林村松江村との間にあたる海中にあり。汀を去る事七、八間、大きさ四、五尺四方なり。その色、甚だ赤し。陸より見る事能はず。船にのり出で見るべし。3月3日には渚より見るとて群集す。これ、水上に顕はるにあらず。汐浅ければ、色の赤きが斜に見ゆるなり。郡名の赤石と云ふはこの石より起るともいひ伝へたり。
と記し、『播磨鑑』には、『正保2年(1645)御改絵図』に「浜辺より三間計り沖」と、赤石の所在が明記されていたことを伝えている。
 正保2年と言えば将軍家光の全盛期であるが、この頃迄は赤石が海中に鹿の姿そのままに横たわり、大潮の時には伝説を秘める石として、多くの人々から好奇な目で眺められ、明石の名物となっていた。
 前述の二つの歌は、伝説に彩られた赤石を詠んだ歌であり、760年前後に活躍した奈良時代の有名な歌人家持の時代から、摂津源氏で文武両道の達人と言われた源頼政の平安末期を経て、将軍家光の時代まで、名児の浜辺に埋まりもせずに、明石の名のおこりである赤石である事を誇示していた。
 さて、現在この赤石が何処にあるかと言えば、同じ名児の浜にある阿弥陀寺(神戸市兵庫区中之島2丁目)の池の中に、『播州名所巡覧』に記載されている姿のまま鎮座し、兵庫が赤石の地であったことを訴え続けている。

阿弥陀寺の池の中にある赤石

                (つづく)