その5 名児の浜

『日本人の認識の誤りを指摘する』 神戸にあった古代の難波     梅村伸雄 会員
 神戸の歴史は、古代から中世にかけての古記録が残されていないため、殆ど分からない、と言うのが史学界の哀れな言い訳である。ただ、そのような古記録や埋蔵文化財のみが歴史を実証するもの、と言う狭い視野で歴史を捉えたならば、幾多の戦火と天災に遭遇して記録をなくし、多くの古墳が崩されて貴重な埋蔵物を失った神戸では、確かにいにしえの歴史は分らないといえる。しかし、神戸の歴史を謎のベールに閉ざした大本は、壺や剣や玉のみによって上代史の秘密がすべて解き明かされるかの如き錯覚に陥り、他の資料に見向きもしない学会の姿勢であり、神戸の歴史のみか我国の歴史さえも歪める無残な結果を生み出している。
 つまり、いにしえの人達が歴史を後世に伝えた手段は、記録や埋蔵物だけではなかった筈であり、視点を自然界の事象に向け、それを和歌という形で時代時代の歴史や地勢、人情、風俗などを後世に残した知識人たちの熱い思い、これも偉大な埋蔵文化財であって、世界的に見ても驚くべき遺産である。この様な遺産は、世界のどの国にもなく、日本のみにある貴重なものであり、その和歌には言い尽くせぬ程の歴史が語られている。
   芭蕉が伊勢に残した、
          月さびよ 明智が妻の かたりせん
の一句に出会った作家中島道子女史が、この句にいたく感動され、明智光秀の妻熙子(ひろこ)に光を与えたばかりか、主殺しの汚名を着せられた光秀を顕彰し、本能寺の変を単なる怨恨説に終わらせることなく、王位の簒奪を狙う信長に対して、朝廷側がおののき、陰謀をもって信長を抹殺しようとしていた事実が浮かび上がり、歴史の舞台裏に隠された朝廷陰謀説の存在を示唆された。
 このように、感動の一句が歴史の真実に迫り、数多くの和歌が歴史の舞台を教えているのである。従がって、神戸の歴史はわからないのではなく、和歌に教えを乞う謙虚な姿勢がないために生じた結果かと思われる。
 そもそも歴史の謎を解くには、それを解明するキーワードが必要であり、見事それを探し出したなら、いにしえの貴重な資料がいとも簡単に手に入るのであり、歴史のキーワード捜しが当面の大きな課題であって、神戸の歴史の謎解きには不可欠な作業でもある。
 その一つが「赤石」の地であったが、二番目のキーワードが「名児の浜」である。
 昔から名勝の地とされる名児の浜は、今までは所在不明の地であって、その所在を知る術を知らなかった。
 ところが、第88代後嵯峨院が詠まれた歌は、神戸のいにしえ発掘の歩みを大きく前進させた。
  葛城の 峰より上る 春の日に 名児の浜辺の 氷とくらん
 この歌は、名児の浜辺が葛城山の西にあることを伝え、その浜辺を限定するには、歌が詠まれた月日さえ分れば、日出時の角度から名児の浜辺を割り出す事ができる。
 そこで後嵯峨院の出自と時代の背景を探らねばならない。
承久元年(1219)、実朝が頼家の遺児公暁(くぎょう)に殺され、後鳥羽上皇は実朝のいない幕府との話し合いに絶望し、公武融和政策などを捨て、倒幕を考えた。その後、幕府との確執から都には緊迫した空気が漂い、承久三年(1221)遂に承久の乱が勃発した。
 後鳥羽上皇の皇子である土御門上皇は挙兵に加わらなかったが、弟の順徳上皇は積極的に協力し挙兵した。この承久の乱は幕府の一方的な勝利で治まり、その結果、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は流され、仲恭(ちゅうきょう)天皇は廃された。
 乱の後幕府は、院政を行う治天の君法皇)や天皇を自由に選択した。結果として、後堀河天皇四条天皇と問題なく皇位が継承されたが、四条天皇は12歳で没したために皇子がなく、順徳上皇の皇子忠成(ただなり)王と土御門上皇の皇子邦仁(くにひと)王とが皇位の候補者となった。しかし、忠成王を推す九条道家は討幕派の順徳上皇外戚であるため、幕府は道家を信用せず、強引にも邦仁王(後嵯峨天皇)を皇位につけた。
 後嵯峨天皇は温雅恭仁な方であり、厚く仏教を信奉し、つとに法理に精通され、浄業は枚挙するに堪えない程であったが、惜しむらくは幕府に対して温順であったがため、幕府の朝権圧迫を許し、あまつさえ、自分の後を継ぐ治天の君の決定を幕府に一任したことにより、後に南北朝の争乱という大きな禍根を残してしまった。
 その後譲位した後嵯峨院は、兄の後深草・弟の亀山の二代にわたり、一院または新院と称して27年間院政を執られたが、1250年代の後半、我国では地震・暴風雨・旱魃・疫病など大規模な災害が、とりわけ頻発した。
 それに追い討ちを掛けたのが、当時の人々に何よりも恐れられていた日食・月食・大流星などの怪異現象が、あたかも凶事を予兆するかのように、災害と災害との合間に繰り返しおこり、ついに末法(まっぽう)の世が到来したのかという嘆きの声が巷にあふれた。(自由国民社『読める年表』より引用)
 特に正嘉元年(1257)からの三年間は、旱魃冷害が続き、最も惨状を呈した正元元年(1259)には、京都でも死者が路上に充満し、空腹に耐えかねた小尼が死人の肉を食らうという地獄絵図すら見られたと伝えられている。
 この様な世情をいたく悲しまれたのが後嵯峨院であり、世情の春を切実に待ち望まれたのも当然であろう。
 春の到来を告げる立春の前日が節分である。この時、厄を払って良き春を迎えるための節分の行事として、一般には豆撒きの風習があるが、宮中に於いては、中国伝来の「追儺」(ついな=鬼やらい)を行い、儺(な)と呼ばれる社会に禍(わざわい)をもたらす、病気、貧困、外敵など、もろもろの災厄を追い払った。
 自然の猛威と怪異現象、不運不幸が連続すれば、原因となる何者かの仕業が考えられ、その「魔なるもの」を追い払いたい気持が宮中に昂じ、後嵯峨院自身もそれを痛切に感じられ、当時、盛大な追儺の行事が行われたであろう。そして、その翌日の立春の日に、宮中で「名児の浜辺」の歌が詠まれたと思われるが、では、何故、春の日をもって、名児の浜辺の氷を解くことを期待したのであろうか。
 それは追々分ることであるが、結論から先に申せば、天皇が即位されると、引き続き大嘗祭(おおにえのまつり)という、一代一度の大祭が行われ、その翌年には八十嶋祭が行われる。その八十嶋祭を行う浜辺が名児の浜辺であり、王家にとっては特別の土地であった、という次第である。
 ここで「名児の浜辺」の所在にもどるが、後嵯峨院立春の喜びと世情の好転を期待したのであり、それを歌に託したと考えられるのであって、その日は概ね新暦の2月4日にあたる。
 そこで2月4日、葛城山より太陽が上る時間を計算すると、太陽が葛城山から顔を覗かせるのが07時12分、その時の方位角は、南より68.2°東である。葛城山からこの方位線を西に延ばすと、そこには和田岬がある。つまり、名児の浜辺とは和田岬の内懐であった。

                (つづく)