(18)平家の娘たち(一)

                                  阪本信子 会員

 現代において皇室と姻戚関係を結ぶメリットは減少し、なるべく皇族との婚姻は遠慮したいくらいです。
 しかし平安時代、藤原摂関家は娘を天皇後宮にいれ、生まれた皇子を天皇にするというやり方で権力、権威を掌握していました。
 その意味で権力者にとって娘は絶対に必要なもので、欠かせない金の卵でした。
 現代人にとって政略結婚といえば嫌な言葉ですが、彼女たちの結婚は政略結婚以外にはあり得ないもので、それを可哀想というのは現代人の感覚であり、錯覚です。
 系図に残っている清盛の娘は8人います。
 彼女達の中で誰が幸せで誰が不幸せなど一口には言えませんが、壇ノ浦の滅亡を見ないで死んだ娘が一番幸せだったかもしれません。
 所謂治承の政変の原因の一つとなった、後白河法皇による摂関領公収の当事者である盛子がその人です。
 彼女は父清盛の摂関対策の一環として、9歳の時22歳の関白藤原基実と結婚しました。
 ところが2年後、夫は死去。11歳で未亡人となり13年後24歳の若さで死にました。
 この時、摂関領相続について清盛と対立していた後白河の挑発が引き金になって、治承の政変が起っています。
 父清盛に徹底的に利用された娘ですが、1歳年上の姉建礼門院徳子の波乱万丈の人生にくらべると、平穏無事なうちに死んだのは不幸中の幸いだったのかもしれません。  (つづく)