その3 赤石八景

『日本人の認識の誤りを指摘する』 神戸にあった古代の難波     梅村伸雄 会員
 寛文2年(1662)、『続本朝通鑑』の編集を江戸幕府より命じられた幕府の儒者林春斎(鵞峯)は、長男春信(梅洞)・次男春常(鳳岡)および門人の人見友竹(人見竹洞)・坂井伯元らと共に、この事業を推進した。
 史料収集については、当時閲覧が困難であった公家・諸大名家蔵の書籍・記録類の借入・書写などに便宜が与えられ、広範囲で大量の編修を行った。史料の考証は、異説を併記したり、両説を挙げて後世の批判にまかせたりしながら、彼等は我が国の歴史を倫理的に見ることは避け、史実を直書する姿勢を貫き通していた。
 その『続本朝通鑑』の完成する前年の寛文9年(1669)夏、春斎は次男の春常と門人の人見友竹を伴って兵庫にやって来た。一行を迎えた赤石城(兵庫城)の城主松平信之は、彼等に対して、赤石城から一望できる赤石(兵庫)の名勝八か所を選び、それぞれの勝地について詩を詠むことを懇望した。それを受けて詠んだ漢詩が、昔の兵庫の情景を記す「赤石八景の詩ならびに序」であり、その序文を意訳してお伝えする。

 古人が伝えるには、西州で勝れる地は播州である。理由は赤石が佳勝の地であり、中国湖南省洞庭湖(どうていこ=湘水)に注ぐ流れとその支流(瀟水しょうすい)、浙江省に在る曲がりくねる川(浙江せっこう)と美しい西湖などが、目前に展開するすばらしい地形であるためなり。赤石の美しさは川と湖にある。古来、詩を詠み、文を連ね、便りを堆くするが、それでも、その美しさを描写し尽くすこと能わず。赤石の情景を詠む和歌は、千百首の多さといえども、数に入れぬ多くの歌もあったであろう。そこでこの度、明石城々主朝散大夫の松平信之殿が、眺望の良い所に立たれ、特に秀でた情景八か所を選び出された。その情景にはそれぞれの古事があり、趣もある。すなわちこれらの地は景色に勝れ、その景色は古人により公にされる。いわゆる、朝霧の美しさには歌仙人麻呂が驚きのうちに和歌を詠み、大倉谷の暮雨は戦い敗れた惨めな尊氏と馬を濡らす、藤江の広がりは歌に詠まれた華やかな住吉の波を伝え、野水の清水は西行の旅姿と心を写し、印南の鹿の声は義経に逆落としの勇気を与え、高砂の尾上の鐘の音は堤納言に懐かしみと短夜を感じさせる。なかんずく、晴れた絵島の雪景色は淡路島を浮かび上がらせ、赤石浦の晧々たる月は山野の明暗を分かつ。
 雪は千秋を経て尽きることなく、月は四海を照して常に軌跡を同じくして、それぞれ役目を忘れぬ如く、我が身も西国にあるとはいえ江戸の役目を忘れることはないが、太平を祝う歌詩の仲間がここに沢山おられる以上、目は寛からず才は足りず、俗っぽい詩をもって情景を偽わり、素晴らしい佳境を汚してよいだろうかとも思うが、城主の松平信之公のたっての頼みなれば拒み難く、短毫邪心なれどここに認めてみる。
 寛文九年(1669年)孟夏    弘文院林学士書(林 春斎)
の序文に続いて、仙人蹤朝霧・大倉暮雨・藤江風帆・清水夕陽・印南鹿鳴・尾上鯨音・絵島晴雪・赤石浦月と赤石の八つの勝地に八つの題名をつけ、林春斎・林春常・人見友竹の三人がそれぞれ詩を詠んでいる。詠まれた所は、赤石の城と呼ばれていた現在の兵庫城跡と考えられるが、その赤石の城からの眺めをこれから紹介しよう。
 先ず「仙人蹤朝霧」と題して歌の詠まれた土地が何処であったか。
  ほのぼのと 明石の浦の あさぎりに 島隠れゆく 舟をしぞ思ふ
 この古今集に載る人麻呂の歌は、彼を歌聖と言わしめた程の歌であり、美しい朝霧の情景をみごとにとらえている。ここに詠まれた朝霧は移流霧の一種で、春先の大地が冷えきった朝、太陽の陽射が山の中腹にかかった頃、山麓に薄い霧が横一文字となって靡く情景が時々見られるが、これが人麻呂の詠んだ霧である。つまり、葛城山から昇る太陽の陽射が須磨や兵庫の山腹を暖め、暖められた大気が北よりの緩い風に乗ってゆっくりと麓に流れ、春先の冷えた大地付近の空気に触れて逆転層をつくり、そこに美しい霧を出現させ、浜辺の松を飾るが、太陽が昇りきると自然に消えてしまうはかない霧であって、この霧を詠んだ歌が須磨から兵庫にかけて数多く詠まれているものの、人麻呂の右に出る歌はまず見当たらない。赤石城主松平信之はこの朝霧を真っ先に詠む様に林春斎一行に求めたのである。
 そこで各自が「仙人蹤朝霧」について詠んだのであるが、その内、人見友竹の詠んだ詩を紹介する。
東方既に白き大江の天、香霧霏々として乱れ水煙に接す
島風帆見渡せども見えず、浦頭いずこにか歌仙に問う
 友竹の詩では、人丸の詠む朝霧の地を大江の浦頭としているが、これは正に兵庫にあった湖と和田岬のことであり、我々にいにしえの赤石の地を教えている。
 ただ、林春斎一行の訪れた夏には、朝霧の現れる季節ではないため、朝霧の美しさが分らぬまま海霧を詠んでいるのは、残念である。
 次の「大倉暮雨」の歌の舞台は何処かといえば、福原の南と言われた兵庫(赤石)には、一の谷とも大倉谷とも呼ばれる大きな湖があって、その湖のほとりが舞台である。
 建武3年(1336)2月、兵庫に集結した足利勢は京都奪還に向うが、これに立ち向かう官軍と豊島河原で戦い、楠正成に虚を突かれて兵庫に退き、追われ追われて兵庫の針ヶ崎の観音堂福海寺)の床下に身を隠し、辛うじて一命を取り留めた。この時に傷心の尊氏は、九州に逃れる前の気持ちを次の歌に託している。
    世の中騒がしく侍りける比、みくさの山を通りて、大くら谷という所にて、
    今むかふ 方は明石の うらながら まだ晴れやらぬ 我がおもひかな
 三草山を越え大倉谷に於いて、今向かうのは明石の浦長柄であるが、そこは証し浦と言われながら、後醍醐天皇に身の証しをも立てずに都を去るのであり、私の思いは晴れやらぬ空のようである、と詠んでいる。城主信之は、大倉谷のほとりには雨に打たれる敗残の武将の姿があるが、その大倉谷を題材にして欲しいと頼み、林春斎が次の歌を詠んだ。
        大倉暮雨
    大倉谷の畔雨霏々たり、行客途に迷い落暉を追う 
    三草の煙は籠り明石暗し、前を指し後ろを顧みて露は衣を沾す
 この歌では、明石の土地を一望する中に尊氏が過ぎた三草山と、歌を詠んだ大倉谷が含まれているが、太平記の時代から平家物語の時代に溯ってみると、三草山は義経の攻撃目標であり、大倉谷は別名一の谷と呼ばれた一の谷合戦の激戦地でもある。また、序文の冒頭に「赤石の美しさは川と湖にある」と記されていたが、その川と湖を見下ろせる山が三草山であり、昔から旅の楽しみの土地として持て囃されていた土地であり、南北朝歌人浄弁が歌でそれを伝えている。
  伝え聞く 昔の人の 楽しびは 三草長柄に 極めつるかな
 この歌の中には、尊氏の詠んだ歌と同様に三草と長柄があって、昔の人の最高の楽しみの地としているが、義経の攻撃目標であった平家の山手の陣にその三草山がある。
 その山手の陣にあたる夢野の『夢野地誌』には、牟登屋武麻伝として、
 頓田山(とんでんやま) 本村の西南に在り総て草地なり、西は長田村の山林に接し、
南ハ神戸区兵庫会下山に連接す。項望須磨兵庫神戸灘を目下にし、播淡紀大和和泉河摂の山岳海港を見渡して其絶景を極む。
と、絶景の山であることを伝えているが、この頓田山こそ三草山であったと考えられる。では長柄は何処か、と言えば、後述するところの紀行文、足利二代将軍義詮の『住吉詣』に載る和田岬であり、三草山とは逆に海の方から湖と川それに武庫の山々を眺める美しい景色であって、江戸中期の古典学者釈契沖が、
  武庫のうら 和田の御崎に よるなみの ここにもかくる 天の橋立
と詠み、武庫の浦には和田岬に寄せる大波があるが、昔ここには、天の橋立のような美しい景色と静かな湖が隠されていたのである、と日本三景の一つである天橋立が武庫の浦にもあって、和田岬(長柄)が景勝の地であることを教えている。
 では次に選ばれた「藤江風帆」は何処かと言えば、和田岬の内懐である。
 仁徳天皇の時代のこと、仁徳天皇と八田皇后は大変仲が良く、愛する八田皇后が亡くなられた時に、その名が絶えないようにと、八田皇后の弟物部の大別(おおわけ)に、「お前が名代として何時までも、その地に残るように」と仰せられ、この地に止まったのが八田部(やたべ)の連となり、物部の大別に生田川から須磨までの土地を管理させ、その土地を八田部郡と名付けたと言われているが、『住吉相生物語』には「菟原四社の宮つくりは、住吉の本宮のように小社等があって、八部(八田部)の名所と言われている、現在、この社を称して住吉と申し上げている」と記し、菟原住吉が神戸(八田部)に在ったことを伝えている。
 一方、『住吉大社神代記』の明石郡の魚次浜(なつぎのはま)には、「藤江」の説明があるので、それを意訳して紹介をすると、
 当時、乱暴者を咎め服従せしめ、鹿背に追い迫るような鳴矢を立てて国境となす。「私が鎮座したいと望む所は、母屋に行くように播磨国に行き住むことのできる処」と、大藤を切って海に流し、祈りながら「この藤の流れ着くところに、我を祭れ」と述べられ、藤はこの浜浦に流れ着いた。それゆえに、この浜浦を藤江と名付け、明石川の流れる上神手山・下神手山より大見小岸に至るまで、ことぐとく住吉の神地と定める。
とあるが、兵庫が明石の一部であったところから、『住吉大社神代記』の記す明石郡は神戸の話であり、「藤江」とは神戸の一部であった。
 また赤石八景の序文には「藤江の広がりは北浪の栄える方に向いている」と記している。赤石の地で北から波がくる浜辺は、和田岬の内懐のみであり、そこに現れる波は誠にめずらしい波であって、多くの歌人が興味深く眺めつつ多くの和歌を詠んでいるが、その一人祝部成仲の歌には、波の正体が詠まれている。
  住吉と 聞くに心は とどまるを いかなる波の たち返るらん
 住みよしと聞き、ここに留まりたいと思うぐらい美しい浜辺なのに、如何なる波が直ぐ返ってしまうのだろうか、心ない波ではないか、と詠み、住吉の浜にできる波が打ち返しの波であったことを伝えている。また歌の大御所である藤原俊成は、
  いくかへり 波のしらゆふ かけつらむ 神さびにけり 住吉の松
と詠み、行き帰りする波が飛沫を浴せ連なる情景は、まるで白木綿(しらゆう)を連ねたような美しさであり、神々しく見える住吉の松である、と藤江に現れる北波の華やかな姿を表現しているが、今少しこの波の情景を説明するならば、辰巳(南東)の風が強く吹く時、その折にできる波は、兵庫の塩土山、別称住吉の松嶺と呼ばれる山の断崖にぶち当たって打ち返しの波となり、帰りがけに行きの波と出会って三角波をつくり、この三角波の波頭から飛ぶ数多くの飛沫が連なって、住吉の松嶺を包み、世にも不思議な情景が出現するのである。
 この歌詠みにとって格好の題材も、船乗りにとっては至極危険な波であって、多くの人命と財産を失う原因となり、平清盛がこれを嘆いて築いたのが経ヶ島である。
 林春斎が赤石を訪れた時代には、すでに打ち返しの波は昔語りの波になり、その情景は残された和歌のみによって知れるのであり、春斎は残された情景のみを歌に託した。
        藤江風帆
    雲晴れ、波静かにて夜や如何ならむ、小舟は風に随い片々と過ぎるも
    なお、漁夫は棹を操る、仰ぎ見れば江月は蔓に掛からむ
 菟原住吉の松に絡んだ藤と月は、かつて兵庫の名物であったが、住吉と松は昔語りの物となり、残された藤と入江と月とで美しい情景を詠み上げている。
 さて、次に選ばれた歌題は「清水夕陽」であるが、野水の清水は西行の旅姿と心を写していると言われて詠んだ人見友竹の歌は、
        清水夕陽
    世間の蒸し暑さは未だかって知らず、一掬いの心の潤いは野水の岸辺にあり
    草はしとねに似て流れは玉に似たり、涼風に座れば日は西に傾く
 既に述べている様に、野水の清水は仁徳天皇が難波に宮居し給うた時に、毎日この清水を宮中へ運ばせた御膳水であり、『古今和歌集』には詠み人知らずで、格調の高い次の歌が残されている。
  いにしえの 野中の清水 ぬるけれど もとの心を 知る人ぞ汲む
 仁徳天皇の古事に語られる野中の清水は、今も水を湛えているが、天皇がこよなく愛したその心を知る人が汲んでこそ、価値あるものになるだろう。
 平安末期(1180)、西行が姫路の書写山円教寺に詣でる途中、この清水のほとりで休んだ時、清水の古事を思い出し、古今の歌を振り返りながら次の歌を詠んだ。
  昔し見し 野中の清水 かわらねど 我が影をもや 思ひいづらん
 むかし仁徳天皇がご覧になった野中の清水は、今も変わりなく天皇の思い出を湛えていますが、私がこの清水を愛でたことも思い出として残してくれるだろうか。
 歌の舞台となった清水は、神戸市西区岩岡町野中にあって、現在は濁った沼になっていると書き残されているが、そこは魚住泊の北6キロ強の内陸部にあって、毎朝御膳水を運べる距離にはない。それでは、仁徳天皇ゆかりの清水は何処にあったかと言えば、そこが赤石八景の一つである以上、赤石城(兵庫城)から見える範囲であり、明石とも淡道嶋とも印南野とも呼ばれる土地であるが、和田岬は赤石の土地であり、湊川の西の原野は印南野と呼ばれ、湊川の河口付近は小島が点在していた所から淡道嶋の別称でも呼ばれていた。
 そこで考えられるのは、右の三つの異名を持った和田岬にあった田の中の丸池である。和田岬から兵庫にかけては、兵庫の背山から水脈が続き、後醍醐天皇ご病気の際、薬仙寺の古泉の霊水を献納してご快癒されたと言う伝承があるように、良質の水を湛えている。
 この田中の丸池については、『播州名所巡覧圖絵』に和田神社の南の田中には丸池があり、その近くに三石の祠があることを認め、『兵庫県神社誌』には、天平年間に行基が大和田の泊を復興させた時に、神功皇后の神霊が行基に「三石の祓所の旧跡に社を建て、大輪田の泊の鎮護として往来神を祀れ」と告げたが、この時一夜にして一株三幹の松が生じたので、神霊嘉納の奇瑞であるとして、この地を三本松とも称した、とあるが、そもそも三石の祓所は、仁徳天皇の祖母である神功皇后が、務古水門に上陸した時に禊をして神々の教えを占った場所であり、奇瑞を現す有り難い土地であったと思われる。
 仁徳天皇の偉大なる祖母の業績を止どめ、奇瑞を現す土地から良質の水が沸き出るとしたら、毎朝御膳水として運ばせたのも頷けるのであり、速鳥がその役目を担当して住吉の大倉に運んでいたが、大倉とは赤石八景の一つに選ばれた、兵庫にあった大きな湖であり、岸辺には菟原住吉があったため、住吉の大倉と呼んでいた。この『播磨国風土記逸文では住吉の大倉に仁徳天皇の宮処があったことを示唆しているが、昔の神戸の呼び名が難波であったところから、この宮処は高津宮であった可能性が大である。
(つづく)