その4 赤石の城

『日本人の認識の誤りを指摘する』 神戸にあった古代の難波     梅村伸雄 会員
 次の赤石八景は、印南の鹿の鳴声は義経に逆落としの勇気を与えたと言われ、「印南鹿鳴」の歌題を与えられたが、義経が逆落としを決断するに際して、鵯越で出会った翁に「さようの所は鹿は通ふか」と問うと、「鹿は通ひ候。世間だに寒くなり候へば、雪の浅みに食まんとて、丹波の鹿は播磨の印南野へ越え候」と申したので、義経は「さては馬場ござんなれ。鹿の通はんずる所を、馬の通はざるべきやうやある」と申して逆落としを決行したのである。湊川の西岸に広がる印南野は義経の攻撃目標であり、赤石城の城主松平信之は、いにしえの印南野の地も義経の逆落としの地も熟知しており、現代の学者の定説が、須磨一の谷が主戦場で須磨の鉄拐山の麓が逆落としの地である、と言う江戸時代につくられた巷説に惑わされていることを知ったなら、どんな顔をするだろうか見物である。
 そこで人見友竹は次の歌を詠んだ。
    印南鹿鳴
 印南野は渺々として広く無辺なり、遊鹿は秋を吟じ往きては又還える
満野は青を敷き草床軟らかなり、悠々として玉川に向かい眠らんや
 ここに詠まれた玉川は、赤石八景の序に於いて「赤石の美しさは川と湖にある」と書き残しているように、美しい湊川を玉川と言い換え、遊ぶ鹿を添えて情景を際立たせている。
夫木和歌集   百首歌        左近中将公衡
  みなと河 うきねのとこに こよひこそ 秋をつげ野の 鹿もなくなり
 この歌を詠んだ平安末期の歌人藤原公衡(きんひら)は、湊川の船の中でごろ寝をしながら、今宵こそ秋を告げる告野の鹿の声が聞けるのではないかと待っていたところ、期待どうりに鹿の鳴き声を聞き、その喜びを歌に表したが、告野は湊川の西にあって、印南野の一部であり、赤石の川と湖の美しさに鹿の声を添え、情景の素晴らしさを強調しているが、これに倣ったのが人見友竹の前述の歌ではないだろうか。
 次の歌題は、「高砂の尾上の鐘に驚き、堤納言が短夜を感じて懐かしみを起こした」と紹介する「尾上鯨音」であるが、歌題の主藤原兼輔は、平安期の歌人紫式部の祖々父に当たり、『大和物語』に多くの話題を提供した男であって、兼輔の存在は紫式部同様、文学史上極めて重要な意味を持っていると言われている。
ただ、残念なことには、平安時代の「歌物語」を猟渉したが、紹介文に該当するような物語を見出だすことはできなかった。
 その理由は、平安時代中頃、源為憲という人が、当時の物語に言及して、「大荒木の森の草より繁く、荒磯海の浜の真砂より多かれど」と表現し、山奥に生い茂る雑草や海浜の真砂より数多くの物語が世に流布していた、と伝えているのだが、これらの沢山の物語の大部分はいつしか散逸し、今日信之公が紹介する物語を知ることができない。
 ただ、「尾上鯨音」の歌題を与えられた林春常(春勝)は、次の歌を詠んだ。
 尾上の風上方より伝わる、華鐘は遠く響き金玉の涼音となる
一声は驚破す夜明け前の夢、誤りて高砂を眺め暁霜を認む
 この春常の元歌は、平安時代後期の学者、当代随一の博学といわれた大江匡房の詠んだ千載和歌集に載る次の歌である。
  高砂の 尾上の鐘の 音すなり 暁かけて 霜やおくらん
 ここで詠まれた高砂とは、会誌15号で解明した兵庫の背山であり、この丘には九世紀の初め平城帝の第二皇子阿保親王が建立されたと言われる房王寺があった。その房王寺の鐘の音は兵庫一帯に鳴り響いて、多くの人々から親しまれ、高砂の尾上の桜や松と共に赤石(兵庫)の名勝の一つであり、『平家物語』の作者もこの鐘の音を聞きながら、滅び去った平家一族を思い出しては、「諸行無常」を感じたのではなかろうか。
 さて次は、晴れた絵島の雪景色は淡路島を浮かび上がらせる「絵島晴雪」が歌題で、人見友竹が次の詩を詠んだ。
 積雪堆々として旭日明るし、粉粧の様は自らを飾る
晴雲色を添え純白に綾なす、なんぞ問わん絵師この清きを描かぬを
 清盛が福原に造った数々の豪奢な御所の内、兵庫の薬仙寺の付近にあった萱の御所は「雪の朝の萱の御所」と言われ、朝日を浴びる雪化粧の和田岬(絵島)と淡路島の名望を一望の下にする御所であり、ここからの眺めは絵師でさえも描き尽くせぬ美しさであった、と伝えられる。
 八つめの歌題は「赤石浦月」であり、人見友竹が次の如く詠んでいる。
 満月現れ一江晴るる、浦辺の秋佳名に劣らず
清光千古を照らし昼の如し、白玉楼高し赤石の城
 この「赤石八景」は、城主朝散大夫松平信之公が眺望の利く場所、恐らく天守閣と思われるが、そこに立って秀逸な八景を選び出したものであり、その景色の全てが兵庫の景勝地であることから、赤石城とは赤石の地にあった兵庫城の別称であって、「白玉楼高し」と詠まれているため、兵庫城は天守閣のある美しい城であったに違いない。
 話は溯って、関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)、西国大名の押さえとして池田輝政が播磨52万石の領主に封じられ、明石地方は輝政の兄之助の子池田由之が預かり船上城に入ったが、現在、この船上城の城跡と言われる土地からは遺構が発見されず、幻のベールに包まれている。この謎の船上城とは、兵庫城(赤石城)の別称と思われる節があるため、私にとって今後の研究課題の一つにあたる。
 その後、船上城を去った池田出羽守(由之)が西播磨の利神城を築いていた頃、大坂城警備役を務める片桐且元の弟、片桐貞隆が秀頼の代官として兵庫城(赤石城)に居た。
その貞隆が在城していた慶長12年(1607)、徳川家康と国交を回復させた朝鮮から、大阪平定と家光の襲職を祝う使節の一行が兵庫城を訪れ、福使である慶暹(七松)が日記『海槎録(かいさろく)』に兵庫城の様子を次の様に語っている。
  周以城池、門設三重、供億鋪陳之具、極其豊侈、至於灯 燭之檠、皆用金銀、
鋪席之辺、亦以彩段飾之、支供官、乃秀頼代官片桐主膳、即大坂執政片桐市正之弟也
 これを意訳すると、「城の周囲には堀をめぐらせ、三重の門を設置し、無数の道具を敷き並べ、豊侈を極め、灯燭の台に至っては、皆金銀を用い、座敷の辺りは、また彩段を以て飾る、支供官、すなわち秀頼代官片桐主膳にして、大坂の執政片桐市正の弟なり」とあって、当時の兵庫城の絢爛たる様子が伺い知れる。ただ、慶長19年(1614)大坂冬の陣が起こると、片桐主膳は兄と共に摂津の茨木城に退き、大坂夏の陣で父秀政と兄忠脩を失った小笠原忠真が、元和3年(1617)信濃国松本よりが10万石で明石に入封した。翌年将軍秀忠の新城構築の命を受け、西国街道明石海峡を押さえる戦略上の要地に新城を築いたが、これが現在の明石城である。
 当時は一国一城令のもと一大名に一城しか許されていなかった時代、明石藩のみが二つの城が許された。その一つは現在の明石城と今一つは、兵庫に在った赤石城(兵庫城)であったと考えられる。
 この赤石八景の後書きには、
この地に因みてこの地を賞し、この地に遊びてこの地を吟ぜずはなし。霊運は天与ありて名をそなえ、異域にひとしく名を同じくす、人以て奇となす。
と記され、ここには兵庫の景勝地赤石(明石)が、明石城のある明石と同じ呼び名であり、人々は不思議に思っている、と当時の民衆の心を語っている。
 明石城は一名「鶴の城」と呼ばれていたが、その名がどちらの城に与えられていたかと言えば、赤石城の北西にあった100ヘクタールにも及ぶ葦の繁茂する浅い気水域が鶴の越冬地であり、多くの歌人が訪れては数多くの鶴の歌を残したため、「鶴の城」の呼び名は赤石城の華名であったと考えられる。また、林春斎が兵庫を訪れる少し前、信之公は儒臣の野中兼山に「明石城十景」を詠ませたところ、「喜春城」と題し、
  城高くして春水深し 佳木清陰に卜す
  陽和の動くより さらに寒気の浸すことなし
漢詩を詠んだために、赤石城は「喜春城(きしゅんじょう)」とも呼ばれたのである。
 さて、忠真の転封後明石藩主は、松平(戸田)康直、甥の松平光重、大久保忠職、松平(藤井)忠国、嫡男の松平信之と次々に代わったが、この間、兵庫の赤石城は明石城の支城となっていた。ところが、信之公が林春斎一行に赤石八景を詠んでもらった翌年の寛文10年(1670)8月23日、播磨国明石は大風雨に見舞われ、明石城本丸・二の丸・三の丸破損(実紀)、潰家949戸、水死11人、破船192艘の大被害を被った。
 当然のことではあるが、その後の処置について幕府の見解を問うたであろう。その結果、延宝2年(1670)から延宝7年にかけての播磨を含む五畿内の幕領検地(実紀)によって、兵庫は明石藩の手から外れて尼崎藩領となり、兵庫城跡に出先役所として陣屋が置かれ、通常「御陣屋」時には「御屋敷」とも呼ばれた。またこの時に、摂播の国境が須磨の境川になったと考えられる。
 神戸の歴史は、同名異地と言う常識外の問題から歴史の裏側に埋没しているが、林春斎一行や野中兼山の残した歌、これから探る古人の残した多くの歌から窺い知れるのである。                     (つづく)