その7 名児の浜の田鶴

『日本人の認識の誤りを指摘する』 神戸にあった古代の難波     梅村伸雄 会員
 和歌の大御所藤原俊成は、「雨後月といふことを」と題し、『新千載和歌集』に次の様な歌を詠んでいる。
  吹き払ふ あなしの風に 雲晴れて なごの門(と)渡る 有明の月
 寒冷前線が通過して北西の風が雲を吹き払い、東の空が茜色に染まり始めた頃、未だ星の残る夜明けの空に、名残りの月が名児の門(和田岬の内懐にある湊川の河口)の上空で輝き、黒い島影や松影が明るくなりだした水面に浮き出る姿はなんと素敵ではないか。
 また、『万葉集』に載る、読人しらずの歌は、
  舟泊(は)てて 梶ふり立てて 廬(いほ)りせむ 名児江の浜辺 過ぎかてぬか
 舟を泊め、無事に着いた喜びを、梶を立てて祝い、ここで一休みしようではないか、名児の浜辺はとてもじゃないが簡単には行き過ぎるわけにはゆかない、美しく魅惑的な浜辺なのだ、と詠んでいる。
 次いで『夫木(ふぼく)和歌抄』千首歌の中で藤原為家の歌は、
  立ち返り なほ過ぎがてに 見つるかな なご江の浜に 寄する白波
 立ち去り難くいく度も眺め、なお去り際に見てしまう、名児江の浜に寄せる世にも珍しい住吉の白波を、と詠んでいるが、これは赤石八景の一つ「藤江之廣向北浪之榮」と言われる、興味深い打ち返しの波を詠んだ歌であり、名児の浜の異名が藤江であることを伝えている。
 この名児の浜の美しさを称える歌は、限り無くあるため、全部を紹介するわけにはゆかぬが、正和3年(1314)の歌合せで詠まれた藤原行尹(ゆきただ)の歌は、神戸の美しい情景の一つを詠んだ歌でもあり、割愛するわけにもゆくまい。
  寄る波も 立ち帰り行く なごの江に 類(たぐい)をみする 春の雁がね
 寄る波も立ち去る名勝名児の入江に、秋の彼岸に立ち寄り春の彼岸に帰る雁が、故郷に向かうのであろうか、美しい列をなして去って行く、海も空も類いまれな景色だ。
 芝居の赤城山国定忠治別れの場面にも満月と雁が登場するのは、感動的な場面に似合うのが「雁がね」、と言う事であろうか、今も昔も日本人の情感は変わらないようである。
 また、歌の大家藤原為家の女婿であり、鎌倉期の歌人素暹(そせん)法師が、名児の入江の珍しい情景を次の様に詠んでいる。
  海乙女 舟乗りすらし 浦風の なごの入江に 田鶴帰るなり
 海乙女が舟に乗ったようだし、名児の入江に田鶴が戻って来たのは、潮が引いて州が現れたからであり、海乙女たちは干潟に吹き寄せられた藻を取りに行くのだろう。
 ここでは、名児の入江は田鶴が棲むのに適した地勢であることを伝えているが、田鶴は何処でも棲息するような鳥ではない以上、田鶴の生態を調べ、名児の入江の地勢を探り出す有力な手掛かりにしたい。
 先ず、北海道新聞社出版の『北海道の自然』から、その生態を抜粋した記事。
 タンチョウ 昔の冬期の生息域(含む推定)北海道の南部、本州、四国、九州の全域。但し、紀州の南部、四国の南半分は除く。
 たんちょうの性格としては、徒党を組んで押し渡るのを好まないらしく、移動は家族とか、夫婦ごとに行う。
 歩行は、のっしのっし歩く「威圧歩行」。鳴き声は、「クワー(雄)カッカッ(雌)、クワー(雄)カッカッ(雌)、………」、草地から声が吹き上がるような「鳴き合い」である。雄が一声先に鳴き、続いて雌が二声か三声鳴く。夫唱婦随の鳴き合い。グライダーのように降下。 芦を折って積み重ねて巣を作る。
 食物(湿原) 幼鳥の時期 トゲオヨコエビ(体長2〜3㎝)、3〜4㎝の小魚、トンボ類、ドジョウ類、7〜8㎝の魚は親が捕って与える。大半が虫類。
 大人鳥(越冬) ドジョウ類、15〜25㎝の鯉、フナ、トゲウオ類、淡水魚、蛙、川のセリ、水生植物、小魚、ミミズなど土中生物、タニシ、マイマイなどの軟体動物、トンボをはじめ多くの昆虫類や甲殻類、キャベツ、白菜、人参、蕎麦、トウモロコシなど。
 これは丹頂鶴に限っての記事であるが、教えられるのは、丹頂鶴の食物は海の生物ではなく、淡水または汽水域に棲む生物であるため、海辺を生息地として越冬することはない。
 従って、難波潟や住吉社辺りを舞台として鶴の歌が詠まれている時、これを大阪の地と考えるのは大きな間違いであり、後述するところの、兵庫にあった難波潟や菟原住吉辺りで詠まれた歌と考えても間違いはない。
 その一例ではあるが、丹頂鶴の「のっしのっし」と歩く姿は独特であり、その姿を源国信が詠んでいる。
  つな手引く 灘の小舟や 入りぬらん 難波のたづの 浦渡りする
 綱に引かれて灘の小舟が入って来たが、綱を引く人足の足並みに合わせているのか、難波の田鶴も「のっしのっし」と水辺を移動している。
 通常水鳥などは、人が近寄ると一斉に逃げるか、危険の無い距離まで移動するが、丹頂鶴は間合いを保ちながら人の歩調に合わせて歩いているように見えると、人と鶴との滑稽な動きと距離を詠んだものと思われる。歌の舞台は神戸にあった瀟湘(しょうしょう)とも称された湖(汽水域)の情景であり、水辺に芦を積み重ね、丹頂鶴の越冬地としていたのであろう。
 ただ、この歌では、難波の田鶴と詠んでいるので、大阪の難波のことと考える方もいるので一応断っておくが、一の谷合戦の古記録が「一の谷の後山鵯越」と記しているのは、逆に鵯越の前に一の谷があることを伝えているため、鵯越の麓にある瀟湘とも称えられた美しい湖が、実は、「難波一の谷」と呼ばれた合戦の舞台であり、「綱手引く灘の小舟」の歌の舞台でもあった。そして、次の釈家末弟静空が「眺望」と題して詠んだ歌も神戸の情景である。
  難波潟 沢辺をたちて はるばると みどりの空を 遊ぶあしたづ
 緑の山を背景として緑が一面に広がる山腹で、鶴が舞っている美しい情景は、高い六甲山が難波潟の直ぐ後ろに迫る神戸ならでは、この歌は詠めない。
 また、色の点から見ても、大阪の難波潟から生駒・葛城・金剛を眺めると、遠距離のせいか、シルバーグレイかスカイグレイに見えるのであり、決してグリーンに見えることはないため、歌の舞台はやはり神戸の難波潟である。
 さて、鶴の越冬地は神戸であると主張すると、ある人は、「昔の人は鶴と鷺とを混用しているのでは」と疑問を投げかけるので、余談ではあるが鶴と鷺の違いを取り上げてみる。
「鶴」:南アメリカを除く世界に分布し、体長は83〜150㎝と大形で、雌雄一緒に行動し、鳴き声は大きくてかん高く、数キロにも届く。繁殖したり食物を探したり夜眠るのは、水の浅いところに限られ、鷺類のように樹上にとまることはない。古来、その端正な姿態から神秘的な鳥とされ、亀と共に長寿の象徴となり、吉祥の鳥ともされる。歌語としてはもっぱら「たづ」が用いられる。
「つるは九皐(きゅうこう)に鳴き、声天に聞こゆ」の諺は、鶴は深い沼地で鳴いても声は天空に達するように、賢者は山野に隠遁していても人は皆知る、と言う譬えである。
 「鷺」:嘴(くちばし)、頚(くび)、脚が長く、鶴に似ているが、やや小さく、飛ぶ時には鶴と違って頚をZ字形に曲げる。目の周囲は裸出し、尾羽が短い。繁殖期には頭上の羽元が後方に長くのびて羽冠を形成。普通は樹上に巣を作り、水田、川沼などで魚・カエル・水生昆虫を食べる。(『日本国語大辞典』他)
 これらの資料からみれば、鶴と鷺は体格・体型・飛行の姿・生活形態などが明らかに違い、昔の人もその違いを知っていたのである。
 清少納言は、『枕草子』三八段に於いて、鶴と鷺を次の様に差別している。
 鶴は、いとこちたきさまなれど、なく声雲居(くもい)まで聞ゆる、いとめでたし。
鶴は首が長く、胸を張って羽を大きく広げる仰々しい姿ではあるが、その鳴く声は天高くにまで(宮中まで)聞こえる、誠に目出たい鳥である。
  鷺はいと見めも見ぐるし。まなこゐなども、うたてよろづになつかしからねど、ゆるぎの森に「ひとりはねじ」とあらそふらん、おかし。
 鷺は大変見た目も見苦しく、目つきなどを含め、何故かすべてのことに好感が持てないが、ゆるぎの森にて「一人では寝ない」と争うのは、面白い。
 平安時代初期に中国から鶴を長寿とする思想が入り、鶴を瑞鳥とする思想は以後長く我が国に定着し、ひと昔前の千円札の裏には、「鶴は千年」の千年と千円とをかけて一対の丹頂鶴が描かれ、真ん中の透かしは丹頂鶴の卵をかたどり、卵が瑞鳥(瑞兆)になる兆しを示していたのであり、誰もがなけなしの小遣いから、サマージャンボや歳末ジャンボに期待するのも無理なからぬ次第であった。
 一方鷺は、高い木に巣をかけて群棲し、見た目に醜いと感じるのは、羽冠や胸・背の飾毛が長くて汚らしく見えるし、アオサギなどは、他のサギ類より高い木に住み、形も大きいところから、憎らしく感じられ、清少納言も目つきに愛嬌がなくて親しみが感じられないと記している。
 また、情熱の歌人和泉式部は、鷺について『金葉和歌集』に次の詞書と歌を残している。
    和泉式部石山にまゐりけるに、大津に泊りて夜ふけて聞きければ、人の気配あまたして、ののしりけるを尋ねければ、下人のよねしらげ侍るなりと申しければ詠める。
  さぎのゐる 松原いかに さわぐらん しらげはうたて さととよむなり
 和泉式部が石山詣での際に大津に泊まった時のこと、夜更けの騒ぎを聞いていると、大勢の人の気配が致し、声高く言い騒ぐので尋ねると、下人たちが米(よね)を精白(しらげ)する歌を歌っている、と申したので詠みました。
 鷺のいる松原ではどうして騒いでいるのだろうか、米搗(つ)き歌を歌わないで、どっと笑っているのは。
 昔の人は、鶴と鷺の鳴き声の違いを、鶴は「なく声雲居まで聞ゆる」とその目出度さを称え、鷺は「罵りける」と鼻持ちならぬと見下しているし、今の人達は、目付きの悪さから詐欺師の異名を与えているが、これらは鷺にとって不本意な評価であろう。従って今もなお、水辺で何か言いたそうな顔をして立っている。そこで褒め言葉の一つも添えてやるならば、「客と白鷺は立ったが見事」と言う戒めがあって、他人の家を訪問したらあまり長居はするな、白鷺のようにほどほどにして飛び去るのが良い、と立ち際の良さを取り上げてやるのが、白鷺に対する精一杯の世辞である。
 この様に昔の人達の観察力は、「仙人の乗る鳥」と「盗み見目の鳥」とを確実に見分けており、彼等の観察力に疑問を抱くのは、かなり失礼な振る舞いかと思う。
 『古今和歌集』に、読人不知で紹介される有名な歌がある。
  難波潟 潮満ちくらし あま衣 たみのの島に たづ鳴き渡る
 難波潟に潮が満ちてきた様だ、海人の衣が干されている田蓑の島に、田鶴が鳴きながら渡って行くが、潮が引くまでの間、田蓑の島はさぞや賑やかになるだろう。
 田蓑の島については、『源氏物語』「澪標(みおつくし)」の項に於いて、住吉詣での光源氏と明石との美しい文の交換の中で、紫式部は田蓑の島を次のよう形で登場させている。
  数ならで 難波のことも かひなきに などみをつくし 思ひ染めけむ
  たみのの島にみそぎ仕うまつる御はらへのものにつけて奉る。
  日暮れがたになりゆく。夕潮みち来て、入江のたづも声をしまぬほどのあはれなる折りからなればにや、人目もつつまずあひ見まほしくさへ思さる。
  つゆけさの 昔に似たる 旅ごろも たみのの島の 名にはかくれず
 「数の内に入れてもらえない私。二人で過ごした難波(明石)での逢瀬(おうせ)も甲斐ないものと諦めていましたのに、なぜか身を尽くしてまでお慕いしています」の一首を、田蓑の島で禊(みそぎ)される折りに、お祓いに使われる木綿(ゆう)に付けて奉る。
 日が暮れ、夕潮が満ち、入江の田鶴が惜しみなく呼び合う情景に触れると、源氏は明石の君にお会いしたいと思われ。
「朝露で衣を濡らしたあの頃に似て、私の衣は涙で濡れていますが、田蓑の島の蓑という名だけでは、この涙を押さえることはできません」。
 ここには可憐な明石の君の思いと源氏の思いが記されているが、文中には二人の出会いの場であった明石(赤石)を難波と呼び、禊をする場所を田鶴の棲む田蓑の島としている。
 これは難波も田蓑の島も大阪とする我々の常識を覆す記述であり、紫式部の常識を疑うべきと言うのであろうか、それとも我々の常識に誤りがあったとするべきか、後述するところの数々の資料からは、紫式部の常識に軍配を上げざるを得ない。
 ちなみに、「風体高く、麗しき筋」と評されていた平安末期の歌人俊恵(しゅんえ)は、兵庫の元の地名である武庫について、次の歌を詠んでいたのである。
  田鶴のゐる 芦辺をさして 難波がた 武庫の浦まで 霞しにけり
 難波潟から武庫の浦まで田鶴の越冬地となっている湖には、美しい早春の霞がかったが、田鶴たちが遠い国に帰るその様な季節になったのか。
 ここでは、武庫に隣接する難波潟には田鶴が棲んでいたことを伝えているが、この難波潟は、後に難波潟一の谷と呼ばれる合戦の舞台となっており、無残な殺戮の地となった。
 年老いてから、凄まじい合戦の有様を聞いた俊恵は、旅立つ田鶴と落ち行く平家とを重ね合わせ、ひとしお寂しさに浸ったのではなかろうか。
 一方、俊恵の父親である源俊頼(としより)の時代には、同じ難波潟ではあるが、平和そのものを謳歌するように、兵庫ののどかな情景を次のように詠んでいる。
  軒近く なごの釣舟 下すなり 山谷こそと 口ずさびして
  此歌は、たなかみにて暮れかかるほどに、男の声して歌うたふ声のしければ、なに事ぞと尋ねければ、釣舟の口ずさみして下るなり、といふを聞きて詠み侍りけると云々
 昔の兵庫の人々は、己の土地の素晴らしさを自慢していたのであろう、「この山や谷こそ」と誇らしげに歌を口遊(くちずさみ)ながら漕ぎ下って行く、と源俊頼は感心していますが、赤石城の城主松平信之公も同じように、古人が伝えるには、赤石の美しさは川と湖にあると、「赤石八景の序」で伝えていました。私共もファッションや異国情緒ばかりではなく、いにしえの神戸も誇ってみようではありませんか。
(つづく)