(173) 騙すのも才能のうち

                         阪本信子 会員
 「宇治川の先陣」は平家物語を知らない人でもよく知っている胸躍るお話です。
 当時の機動力は馬しかありませんでしたし、また、戦場においては馬次第で命にも関わるのですから、武士が良い馬を欲しがるのは当然です。
 佐々木高綱は名馬「いけづき」を賜わりたいと申し出ました。頼朝は「他にも欲しいと申し出た者がいるが」と恩に着せて彼に与え、同じく「いけづき」を望んだ梶原景季には「あの馬は自分が乗る」とごまかして、二番手の「するすみ」を与えました。
 一見すると頼朝は佐々木に贔屓していますが、佐々木にしてみればそれに応える為に、一番乗りせねば、生きては帰られぬというプレッシャーは相当なものだったでしょう。
 佐々木は一番乗りを確実にするために、先んじて川に乗り入れようとする梶原に「腹帯がゆるんでいる」と嘘を云い、梶原が馬を下りてそれを確かめている間に、佐々木は馬を川に乗り入れ、一番乗りを果たします。
 手段を選ばず、味方さえ騙して先陣の功を得ようとする凄まじいまでの執念は大したものですが、二人をライバルにして競わせようという頼朝は何枚も役者が上で、騙すテクニックも段違いで、中途半端な詐欺師ではこうはゆきません。
 天下を狙うにはこういう才能も必要なのです。  (つづく)

(172) 水着は要らない

                         阪本信子 会員
 北京オリンピックも近つき、スピード社の水着が話題となっています。たかが水着と言うなかれ、世界記録、日本記録続出なのですから、無視するわけにはゆきません。
 クーベルタン伯爵が近代オリンピックを初めてギリシャの地に開いて以来、より早く、より美しく、より強く、より高くを目指してきました。
 その意味で、記録の更新というのは重要なことなのでしょうが、二千五百年以上も昔の古代オリンピックとは大きな違いがあります。
 古代ギリシャにおいてオリンピックは四年に一度のゼウス神への奉納競技会であり、祭祀の一種でした。
 参加する選手は一糸纏わぬ姿に、オリーブ油をたっぷり全身に塗り、隆々として均整のとれた肉体を誇らし気に見せながら、走り、投げ、組み合った。
 勿論選手は男性に限りました。というわけではないのでしょうが、既婚の女性は見ることを許されず、敢えて禁を侵そうとする勇気ある女性は、神の怒りに触れたとして崖から突き落されたそうです。
 鍛えられた肉体は完全なる美であり、同じ条件、つまり全裸で技を競うべきであるというのが、その頃の信念、慣習でした。
 現代オリンピックでも同じ条件で競うというのが原則ですが、ならば全裸でやられたら如何ですか。
 観客動員の苦労がなくなるのだけは確かでしょう。(つづく)

 ◇7月例会のご案内◇

  • 演題  谷崎文学の魅力
  • 講師  藤原智子先生((神戸市会議員、文教経済委員) 芦屋市谷崎潤一郎記念館図録編纂編集実務補佐 谷崎潤一郎研究会会員
  • 日時 平成20年7月6日(日)13:30より15:00頃まで
  • 場所 兵庫県民会館 902号室 (JR・阪神元町駅」の山側、徒歩7分。地下鉄「県庁前駅」1-2出口)
  • 参加費 500円(申込み不要・自由参加)
  • 主催 兵庫歴史研究会
  • 問合せ先   電話 078-592-1621 梅村伸雄


  • 谷崎 潤一郎は、明治末期から第2次世界大戦後にかけて活動した小説家(1886〜1965)です。作風は耽美主義とされる『痴人の愛』『細雪』』『春琴抄』など多くの秀作を残し、文豪と称されました。
  • 関東大震災を機に関西に移住、一次避難の予定でしたが、関西の地をいたく気に入り、その後長く住んでおります。
  • 東京人の谷崎が、「人種」が違う、と非難していた関西人を、最後には愛したとの話もあります。
  • この度は谷崎の魅力について、難しい話は抜きにしてお話をしますが、『春琴抄』には、二人の間に4人の子供がいたこと、その意味などについてもお話します。


  • 藤原先生は、関西学院大学大学院生の時に谷崎の未公開書簡を発掘され、「谷崎潤一郎の?お春どん?への手紙」を執筆、『婦人公論』に掲載されて好評を博しました。
  • 細雪』に登場する名脇役?お春どん?のモデル、久保一枝さんが亡くなったその枕元に遺された谷崎さんからの140通近い手紙は、久保夫妻への思いやりに溢れるものでした。
  • この度は、その一部についてお話を伺いたいと思います。乞ご期待

(171) 権威無視は大ケガのもと

                         阪本信子 会員
 院の御所法住寺襲撃は義仲にとって、武士相手の戦いと同じで、敵の館、城を攻めて分捕り、殺し、降参させれば戦いに勝ったと思っています。
 あっけないほどの勝ち戦で、「法皇になろうか、天皇になろうか、関白になろうか」と有頂天になっていた義仲を「平家物語」はいささか軽蔑気味に伝えています。
 しかし、伝統、権威がモノをいう京と言う町は、だからといって勝利者として義仲を受け入れる、そんなに単純なものではありません。
 貴族たちにとって天皇法皇の権威は絶対的なもので、いくら法皇の挑発が発端で、破れかぶれの自衛の為の対抗手段だったとはいえ、院の御所の襲撃は信じられない暴挙、狂っているとしか思えなかったでしょう。
 このとき天台座主明雲や後白河法皇の皇子にして円城寺長吏の円恵法親王という当時の宗教界の大物も、雑兵の手によって殺されていますが、「愚管抄」によれば、手柄顔にその首を差し出し、報告する家来に、義仲は「なんでうさる者(なんだ、そんなものを)」と全く無視して、西洞院川に棄てさせたそうです。
 義仲にとって、人々が絶対なものと信じている身分とか門閥は何の意味もないものでしたが、そういう考えは当時にあっては通用せず決定的な短所であり、したがって義仲の挫折も必然の結果かもしれません。 (つづく)

(170) 無敵の法皇のはずなのに?

                         阪本信子 会員
 都の人は乞食でも田舎者に優越感をもち意地が悪い、中でもぬきんでているのが、法皇とその軽薄な側近です。
 義仲に対する「いじめ」は相当あくどいもので、タカをくくっての追い出し作戦は裏目にでて、窮鼠猫を噛み、義仲は終に後白河法皇の挑発にのって院の御所法住寺殿を襲撃します。
 九条兼実はこれについて「義仲が法住寺殿を攻めるのは無理のないことで、義仲は天が遣わした戒めの使者と考えるべきである」と法皇を非難している。
 しかし、当時は天皇とか法皇というものに呪縛されているのが当たり前で、義仲に同情するものがいたとは言え、結果的には朝敵となり、清盛以上の悪行と言われるようになっています。
 相手が武士ならば売られた喧嘩を買うのが当然で、何等差し支えるものではないが、相手が法皇となれば何をされても我慢して従うしかないという不合理に真正面から反抗したのが義仲でした。
 徳富蘇峰は「源頼朝」のなかで、「義仲は熱湯の風呂ヘ入り、下から猛火をもってこれを煎ずる状態で、いよいよ立っても坐ってもいたたまれぬ極地に追い詰められ、この上は致し方なく行動をおこした」と述べている。
 勿論千軍万馬の木曽勢の圧倒的勝利となりますが、実際には事態は何も変わらず、彼の立場は益々悪い方へ向い、破滅への一本道を突進してゆくのです。 (つづく)

(169) 信子随筆 言葉は世につれ

                         阪本信子 会員
 古い人間の私にとって、昨今の言葉の乱れは甚だしく、日本文化の崩壊ではないかと危惧しているのですが、同じ考えを持たれている方も多いことでしょう。
 日本文化を正確に具現していると信じているNHKのアナウンサーの言葉にさえ、眉をしかめることが多々あるのです。
 しかしよく調べてみると、今では「○○です」は普通の言葉ですが、これが一般的になったのは大正からで、それまでは下層階級の「でげす」が縮まって「です」になったものです。
 二葉亭四迷の小説には「です」ではなく、「でございます」が使われ、上流、知識階級では「です」は下品な言葉として、使われていなかったことがわかります。
 また、すし屋などでいう「あがり」はお茶のことですが、これは江戸時代の宿場女郎の言葉であり、同じ遊女でも格式を重んじる吉原、島原の遊女は使いませんでした。
 「ツウ」ぶって言っているつもりかもしれませんが、「あがり」というのは元をただせばこういうことなのです。
 また「本をひもとく」と気軽に言っていますが、万葉時代に「ひもとく」というのは深い男女関係になることを意味しているのであり、現代人が気軽に「ひもとく」と言ったら、あの時代の人が聞いたらどう思うでしょうかね。
 しかし、いくら言葉は生き物だとわかっていても、「KY」(空気の読めない)とか、「うざい」なんていうのがいつか通常語になるのでしょうか。ヤバイ! (つづく)

(168) 信子随筆 時代が求める指導者

                         阪本信子 会員
 かつて日本では総理大臣について、その存在理由を論理的に語ったことはありません。
 昔、刀匠正宗が極意を譲ったのは弟子の義弘でした。
 その選別法は4人の候補者に鍛えさせた刀を流れに立て、上流から藁屑を流すというもので、弟子の村正の刀は触れるや否や真っ二つに切れた。息子の貞宗の刀に藁屑はまといつくが、気合をいれても切れない。
 そして、義弘の刀に藁屑はまといつくが切れない、そこで「エイ」と気合を入れると二つに切れたので後継者にしたという伝説があります。切れる刀を求めるならば、村正です。
 しかし、ここに奇妙な道徳観が付随すると、村正の刀は妖刀となり、村正という人間も危険人物となってしまいます。
 こういう考え方は日本人には理解できるものであり、たとえば信長のような村正的と見られる人間は指導者としてあまり歓迎されませんでした。
 しかし、指導者に道徳的とか人格的であることだけを求めるならば、極端な言い方をすれば、偽善、ごまかしでその能力不足をカバーしてリーダーになるというのも可能で、官僚は扱い易い上司として大歓迎するでしょう。
 しかし時代によって求められる指導者像は異なっています。
 現在、能力があり、冷静にして実行力のある政治家が求められているのは、まさしく戦国時代なのですが、一時はそういう人物を歓迎したとしても、振り子のように元に戻っている、日本という国はそんな国のような気がして仕方がないのです。(つづく)