(171) 権威無視は大ケガのもと

                         阪本信子 会員
 院の御所法住寺襲撃は義仲にとって、武士相手の戦いと同じで、敵の館、城を攻めて分捕り、殺し、降参させれば戦いに勝ったと思っています。
 あっけないほどの勝ち戦で、「法皇になろうか、天皇になろうか、関白になろうか」と有頂天になっていた義仲を「平家物語」はいささか軽蔑気味に伝えています。
 しかし、伝統、権威がモノをいう京と言う町は、だからといって勝利者として義仲を受け入れる、そんなに単純なものではありません。
 貴族たちにとって天皇法皇の権威は絶対的なもので、いくら法皇の挑発が発端で、破れかぶれの自衛の為の対抗手段だったとはいえ、院の御所の襲撃は信じられない暴挙、狂っているとしか思えなかったでしょう。
 このとき天台座主明雲や後白河法皇の皇子にして円城寺長吏の円恵法親王という当時の宗教界の大物も、雑兵の手によって殺されていますが、「愚管抄」によれば、手柄顔にその首を差し出し、報告する家来に、義仲は「なんでうさる者(なんだ、そんなものを)」と全く無視して、西洞院川に棄てさせたそうです。
 義仲にとって、人々が絶対なものと信じている身分とか門閥は何の意味もないものでしたが、そういう考えは当時にあっては通用せず決定的な短所であり、したがって義仲の挫折も必然の結果かもしれません。 (つづく)