(107) 清盛の昇進は実力です

                              阪本信子 会員
 分不相応が文句なしに悪い事とされた当時、清盛に対する非難は卑賤の身をもって俄に成り上がったことが最たるものでした。
 門閥、血統のお墨付きが何よりも権威の裏づけとなるもので、平家物語作者は清盛白河院落胤説を「祇園女御」で展開しています。
 後世、これについては諸々の資料をもって論議が交わされていますが、特に「中右記」保安元年7月の記事に忠盛の妻の死があり、彼女は「白河院辺」の女であったというのがその有力な根拠となっています。
 しかし、「辺」がどの程度の辺であったかは疑問です。
 また、落胤説が確定的になったかに見えたのは、明治26年滋賀県胡宮神社に伝来していた「仏舎利相承系図」の中に、祇園女御の妹に当たる女房が白河院の子を生み、祇園女御が猶子としたとの記述の紹介があった時です。
 これは大センセーションをまきおこしましたが、調査の結果後世に加筆された部分があり、平家物語から派生した古文書との説も生じ、未解決のまま現在に至っています。
 もし、その可能性を言うならば、白河院の女狂い、女漁りのだらしなさにあり、多数のご落胤と称する者が都には存在したであろうことは事実です。
 また、その噂は清盛が死んだ後に囁かれ、清盛の目を見張るほどの昇進は白河院が死んだ後に実現したということについてはどう説明できるでしょうか。ご落胤説否定の有力な裏づけと考えています。
 清盛の急激な栄達を望外の不思議と見る人々を納得させる手法としてのご落胤説と私は思うのです。 (つづく)