(104) 清盛が落ち着きたかったのは東国?

                              阪本信子 会員
 源季貞は平家滅亡後も娘婿の縁で生き延び、そのため彼の和歌は実名で後世に伝えられていますが、その中に注目すべきものがあります。
 月詣和歌集 巻10 哀傷の部に同僚平貞能からの手紙をみて詠んだとの詞書があり
    東路に行きて住まんと言い置きし
     人もかくこそ悲しかりけれ
 と詠んでいる。
 貞能の手紙を受け取ったのは清盛が死んだ2,3日後で、ここにある「東路に行って住みたいといった人」は清盛だと考えるのが妥当で、生前清盛は季貞に「東往志向」を話していたと解釈できます。
 後世、清盛の遺言といわれるものは直接でなく、宗盛の口を通じて後白河院に話されたのを兼実が「玉葉」に書きとめたのであり、「吾妻鏡」はそれを補充して載せているのです。
 清盛は東国追討の後、東国に行って住むつもりだったと考えれば、遺言の解釈も少し変わってきます。
 彼の遺言には裏切られた王朝への恨みが十分くみとれ、徹底抗戦を叫び、坂東八平氏の後裔の血、武士の本能が甦った言葉とも受け取れます。
 都を福原へ遷し、治承のクーデターによる平家内閣への改変、南都の大伽藍を焼いたのも王朝そのものの破壊を意図したのではないか。
 しかし、もう手遅れでした。
 鎌倉幕府成立の露払いに終ったことをあの世の清盛はどんなに無念に思ったことでしょう。(つづく)