(105) 説話は三面記事?

                              阪本信子 会員
 「平家物語」には多くの説話が語られており、説話の集積の上に成立っていると言っても過言ではありません。
説話は適当に短い話で、一話完結でもよく、庶民の好む話で啓蒙的な働きもします。
 「平家物語」において、それは物語の全体を貫く趣旨に従って整理され、位置づけられ、大きな流れを作っています。
 慈円の書いた「愚管抄」が異説、異伝を書きながら、事実はどうかを確かめるという作業を続け、歴史書としているのに比べ、「平家物語」はそれが史実か否かの次元を超えて、存在感を漂わせています。
 読む方も年代とか事件を新聞記事的に伝える無味乾燥なものより、人間的なエッセンスがたっぷり含まれている説話の方に興味をもつのは当然と思います。
 もし「平家物語」に説話がなかったら、国民的文学として現代に至るまで語り継がれることもなく、源平の内乱の様々な姿も後世に伝わらず、日本人の精神生活に大きな影響を与えた盛者必衰、諸行無常歴史観を平家滅亡という大事件を通じて知らしめることもなかったでしょう。
 清盛死去のあとに続く「築島」「慈心房」「祇園女御」は日記、記録を資料として歴史的真実を語るというより、真偽に関わりなく説話を語り、読書力の無い庶民も三面記事を聞いているようで、それを歓迎して受け入れたものです。
 何れも清盛は只者でないという話ですが、「平家物語」が書かれたのは鎌倉時代で、平家政権を懐かしむ人々の思いもそこにあったのかもしれません。(つづく)