(46)頼政は埋もれ木なのか?

                                     阪本信子 会員
 平家物語を読んでいると、作者は死に方について相当配慮をしています。
 頼政には念仏を高声に十ぺん唱えさせ、極楽往生間違いなしで、作者の好意的な意図が見えてきますが、すでに出家しているのですから考えられることです。しかし、源平盛衰記にいたっては三百ぺん唱えさせており、所要時間を考えると、こんな時にそんな暇があったのかしらと気を遣います。
 おまけに辞世の和歌までよんでいます。さすがに平家作者はこんな時に歌を詠める筈はないが、若い頃より好きな道なので、最後のときも詠めたのだと言い訳していますが、大体辞世というのは早くに用意しておくのが普通です。

 埋もれ木の花咲くこともなかりしに
 身のなる果てぞ悲しかりける

 自分の人生を埋もれ木にたとえ、最後もこんなに悲運であるという自嘲ですが、いささか僻みっぽい歌で、本人の作でないとの説もあります。
 父が従五位で終わったのに比べると従三位というのは埋もれ木どころか、大輪の花です。もし本当に頼政の作なら花火の不発のような不本意な戦いに埋もれ木感を持ったのかもしれません。
 しかし、この企てが平家打倒の種火となったのですから、頼政がそれを聞いたら草場の陰で、埋もれ木でなかったと安心するでしょう。
 因みに現代の「埋もれ木」とは枯れて土中で炭化した木のことで、堅く黒光りしていて細工物に使われ珍重されています。
 しかし、見方を変えればどんな栄華を極めた人でも、長い歴史の中では小さい埋もれ木に過ぎないのではないでしょうか。  (つづく)