(45)馬筏は東国武士の常識

                                     阪本信子 会員

 宇治川は京都攻撃にしても、守るにも要となる地点です。
 戦いになると大橋が壊されるのは当然であり、それはこの地、この川にかけられたこの橋の宿命ともいえます。
 頼政は橋板をはずし、騎馬の通行を妨害して平家の追撃を逃れようとしました。
しかし、18歳の若武者足利忠綱が進言した馬筏という渡河作戦によって、あっという間に平家軍は川を渡り、短時間の戦いの後、頼政は宇治平等院の扇の芝の露と消えました。
 平家物語では軍記物語パターン通りの水増しした兵数で迫力を出そうとしていますが、実際には平家の主力は未到着で検非違使や足利勢の300騎に対し、頼政50騎で、平家物語にいう28,000余騎対1000という華々しいものではなく、「玉葉」、「山槐記」によれば水量も少なく、上流には徒歩で渡れるところもあったらしい。
 あっと言う間の敗北でしたが、その戦いぶりは見事で、「玉葉」に兼実は「僅かの手勢だが、引くことをせず、果敢に戦って皆討ち死にした」と賞賛しています。
 この時、あてにしていた僧兵は殆ど戦力となりませんでした。彼らは目立ちたがり屋の一匹狼的で、団体行動は苦手、平家物語では一人で「ええ格好」して、それで満足してまだ戦いは続いているのに、傷の手当てをしてさっさと戦線離脱していく姿を書き、そこに彼らの本質が見てとれます。
 因みに僧兵の活躍は貴族の日記には一言もありません。
 貴族達にとって強訴をイメージさせる僧兵などは物の数に入っていなかったのかも知れませんが、後世、謡曲「一来法師」を始め清元、長唄はその時の僧兵の軽妙な戦い振りをモチーフにしています。武士とは違った戦いのイデオロギーに中世の面白さがあります。     (つづく)