(その一)

                       八瀬久 会員  
 兵庫県の西部で広がる播磨平野の西南隅には、赤穂郡赤穂市相生市の二市一郡があり、これらの地域には秦河勝にまつわる多くの伝説が残されている。そしてこの地方には現在、秦、畑、八田。波田、羽田等々を名乗る方々が,「我こそは秦氏の系統だ」と河勝の子孫を自称しておられる。
 私が手掛けている播磨の名族赤松氏も「元弘の乱」での決起に際して、分不相応とも考えられる二千余騎が一挙に馳せ集まったが、その内容を見ると、千種川筋や揖保川筋からの諸族が殆どであった。古代に此地方の川筋を開発して定住したのが秦氏の一統であり、この人々の子孫がそれぞれの地域で根を張り、力を蓄えた結果、その地の実力者となって、やがて豪族へと成長して行ったのである。それらの諸族が赤松氏の許に結集した事実から、或いは赤松氏も秦氏との繋がりがあったのではないかと、主張しておられる郷土史家さえ存在する。
 そこで今回はこの地方とつながりの深かった秦河勝を取上げてみたい。

秦河勝は実在の人物?
 河勝の生没年については、伝説の域を出ないので、定かではないが『日本書紀』等から考えると、推古天皇舒明天皇皇極天皇と共に大化改新に尽力した河勝は、古代における身分の高い官人であったことは間違いのない事実であろう。
 その主な事績について例記すると
一 推古十一年 (六○三)
  聖徳太子から尊像を授けられ、京都に蜂岡寺を創建している。
二 推古二十四年 (六一六)
  新羅使の来朝に際して、その接伴役を命じられている。
三 推古三十一年 (六二三)
  新羅任那の使者が来朝して、仏像その他を献上したが、その内の仏像を河勝が独立した葛野の秦寺 (広隆寺) に安置して祀っている。
四 皇極三年 (六四四)
  富士川の畔でおおふべの大生部おお多と云う者が、繭に似た虫を捕まえて来て、とこよの常世かみ神と言って
「この虫を祀ると金持ちになり、長生きが出来るのだ」と人々を騙し迷わせたので、河勝が富士川に赴き、大生部多を懲らしめて人々を救った。その行為に喜んだ土民達は、
   太秦は神とも  神と聞こえ来る
     常世の神を  打ち懲らますも
  と感謝の気持ちを歌い、河勝を称えたという。
 河勝が日本正史から完全に姿を消したのは、この皇極三年における虫退治の記事が最後だと言われており、この年以後の河勝については伝説の域を出ない。従って播磨地方に伝わる伝説、特に坂越浦に残るものは、その最たるものであろうとか。

坂越浦に残る河勝の伝説
 河勝は山背王と親しかったので、そがのいるか蘇我入鹿に疎まれ、身の危険を感じた結果、密かに都を抜け出し、難波浦から船で瀬戸内海を西に向った。やがて播磨国坂越浦にあるいくしま生島に流れ着き、土着したのである。
 河勝はこの地で民百姓に、あらゆる物の生産手段を教えたし、川筋を開墾したり湊を整備したので、坂越浦は大いに栄えたと言う。
 坂越浦の人々は河勝を神として崇め敬い、死後はおおあれ大荒大明神として祀ったが、後の世になって《大荒》を改めておおさけ大避大明神と呼ぶようになった。
 今も生島の正面に、海を挟んで北側の山に「大避神社」として祀られている。この元社を基点とした末社は、大避神社或いは大酒神社と名付けられ、西播磨の各地に三十数社が点在している。その大半は川筋にあって、河勝の伝説を今日に伝えていることを見ると、矢張り河勝の子孫或は一族が開拓した土地と言うことだろう。
 はた秦と日本名で言うがしん秦と読んで、渡来人だとする説が有力だが、そうだとすると、多分先進民族としての新しい知識や技術を持ち合わせていたから、それらの全てを投入して未開地の開発に取り組んだと考えられ、その結果、この地方で秦一族が大きな勢力を蓄えることが出来たのであろう。
 河勝は能楽「金春秦氏」の始祖とも言われ、世阿彌元清が『風姿花伝書』で、また金春禅竹が『明宿集』の中で、皇極三年以後の河勝の行動を書いているが、『明宿集』によれば「河勝の上陸地点は播磨国南波尺師の浦に寄る」と書かれており、坂越とは書かれていない。この書に言う所の南波とは那波のことと推定され、尺師については、その字地名が残っていないものの、那波にある大避岬の先端のことを、土地の古老達が《シャクシノハナ》と呼んでいたことから考え合わせると、南波尺師の浦とは、那波にある大避神社の前の岬付近と推定しても、あながち間違いではなさそうである。
 坂越の大避神社の縁起については天和二年、(一六八二)四月に神祇道領のうどべの朴部朝かねつら臣兼連が著したものであり、その内容から見て,『風姿花伝書』に因ったことは、ほぼ間違いのないものと考えられる。これとは別に坂越の大避神社には、猿田彦と言う古い舞面を伝えているが、その年代や作者、そして奉納の意図については不明である。
 真偽は兎も角、河勝が赤穂郡に居住するようになってからは、矢野庄方面にも足を運んだことは、この地域に大避神社があることからも判るが、「遠矢伝説」「養蚕伝説」と共に、「三本卒塔婆伝説」などが残っていることからも十分に理解することが出来る。(つづく)