(83)何とする南都

                              阪本信子 会員
 清盛が都を福原へ移した理由の一つは寺社勢力からの分離でしたが、半年後、京都へ都を戻したのも大いに寺社対策が関わっています。
 福原造都に一所懸命になっている間に、近江を始め畿内に反平家勢力が集合、日々膨れ上がっていたのです。
 今まで平家と友好的であった延暦寺も内部対立が表面化し、いかに清盛とはいえ遠く離れた福原でリモートコントロールするわけには行かなかったのです。
 私は都を京都に戻すにあたって、清盛は今まで中途半端に終わっていた南都の寺々の反平家勢力を徹底的に討伐することを決心していたと思います。
 「平家物語」では南都攻撃の必然性を匂わせて平家をフォローしているが、資料などから考えると南都攻撃は早くから意図していたもので、攻撃前12月21日の人事異動も南都への通過地点である河内守に清盛の義弟、藤原隆親を播磨守から転任させている。これは南都攻撃を頭に入れた人事です。
 治承4年、暮も押し迫った12月25日重衡を大将として追討軍は京都を出発した。宇治に2日間留まり、28日攻撃開始。
 春日神社を残し、東大寺興福寺も堂舎の殆どを焼失し、大仏も焼け落ち、平家的サバ読み勘定では3,500余人が焼け死んだという未曾有の大惨事となったのです。  (つづく)