(82)武力をもつ寺社勢力は宗教?

                              阪本信子 会員
 話し合いによる解決が出来ればこれに越したことはありません。但し、聞く耳持たぬ相手にいくら話し合いでの解決を呼びかけてもそれは無駄というものです。
 朝廷からは興福寺蜂起の混乱をおさめようと、摂政基通が使者を派遣しても相手にされず、その身に危険が及ぼうかという有様ですから、話しにも何にもなりません。
 また、正月の毬杖の玉を清盛の頭に見立てて「打て」「ふめ」などともてあそぶに及ぶと、清盛は備中国住人瀬尾兼康を騒動をしずめさせようと出向させた。彼らは話し合いをするのが目的で、無防備で対したため、60余人が衆徒に討たれ、首は猿沢の池の端にさらされた。
 清盛は大いに怒り、本格的な攻撃を命じた。
 「平家物語」では平家が南都攻撃をせざるを得なくなったについては、このような理由があったのだと南都攻撃をフォローしていますが、史実としてはこの裏づけとなる記事は見当たりません。
 作者は平家贔屓になったのかと錯覚するのですが、この頃の寺社勢力は貴族たちの目にも顰蹙を買うものだったのかも知れません。
 政教分離という清盛の構想からすれば、武力を持つ寺社勢力は宗教団体ではなく、武力をもって処理するに至ったのは当然の成り行きだったのです。         (つづく)