(84)南都炎上は既定方針だった

                              阪本信子 会員
 平家の精鋭を相手に僧兵が勝てるはずもなく、あっという間に追討軍は南都に侵入した。
 平家物語によれば夜戦になり、松明代わりに民家に火を放ったところ、燃え広がり大火になり寺々を焼いたという偶発的な結果で、重衡としては思いもよらない事であったと弁護して書いている。
 作者の目は徐々に平家一門に対して憐れみを帯びた優しさを加え、重衡のその後についても好意的で、特に清盛の死後はその感がある。
 しかし、貴族の日記などから考慮するに、南都攻撃が決定された時には南都焼き討ちは既定方針とされていたらしい。
 中山忠親は京都にいて午後2時頃奈良方面に煙を見ており、夜になると赤々として、昼から燃え続けていたことがわかる。
 何れにせよ堂舎を失っては活動も出来ず、抵抗勢力は事実上消滅したといってよいでしょう。
 しかし、これにより寺社勢力は完全に平家の敵となり、貴族たちの目も冷たくなってゆきます。
 「あさましかりつる年も暮れ、治承も五年になりにけり」と平家作者は翌年への期待を込めてこの章を結んでいる。
 しかし、その治承五年も早々に高倉上皇が、そして清盛の死という波乱の年となるのです。 (つづく)