再論・義経北行譚と推理小説

                                    溝渕隆生 会員
 かつてぼくは、「義経北行譚と推理小説」と題する小論を書いた。その後、インプットすべきデータなどについて想到し得たので、ここに再論する。




 義経は平泉で死なず、東北地方を北上して、当時は蝦夷と呼ばれていた北海道へ渡った。さらに樺太を経て大陸に移り、アムール川をさかのぼって奥地に入り、そこでモンゴル帝国の皇帝、ジンギスカンになった――。
 義経の一生は、さまざまな伝説に包まれている。なかでも「義経以後」がおもしろい。小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経也』(大14)が史壇で大論争を呼んで以来、「義経は生きていた」型の伝説が定着し、まさに『義経は生きていた』(佐々木勝三・昭32)なる書物も出た。さて、歴史の謎の多くは、決定的証拠を提示することが不可能に近く、学説などそれは一種の夢であり想像を交えたものである。推理小説というものが、論理と想像との合体だとすれば、義経北行伝説などという恰好の材料を、作家が見逃すはずがない。
 まずは高木彬光の『成吉思汗の秘密』(昭33)。義経北行をネタにした長編推理小説の第一号であり、義経ジンギスカン説を興味深くまとめている。小説の体裁をとりつつ、ネタの集大成としても、今なお、「義経以後」のテクストといえよう。
 江戸川乱歩賞を受賞したのは、中津文彦の『黄金流砂』(昭57)である。北行伝説にからむ古文書が出現するという、暗号文解読をめぐる伝奇冒険小説的な展開が実に楽しい。また中津には、その名も『ジンギスカン殺人事件』(昭61)。義経ジンギスカンか?伝説を求めてモンゴルへ。さらに『成吉思汗の鎧』(昭62)という、国際的スケールで別の角度から追った作品もある。
 中津について、もう二、三。『「義経伝説」空白の殺人』(平5)。

藤原重光の日記には、文治四年の秋のことと、書かれてあったそうです」
 大輔は、にわかに押し殺したような声で囁くようにそう言った。
「え? 文治四年の秋、ですか?」

 義経は、北ではなく、密かに京都に潜入し、朝廷と組んで頼朝に叛旗を翻そうとしたのでは、という古文書が発見された。藤原重光という平泉第の責任者らしい者の日記である。この発見が殺人事件を…。傑作『消えた義経』(平6)。

「御曹司も、靺鞨の国から騎馬武者を引き連れて参ろうとは、思い切ったことを考えたものよのう」
「まことじゃ」
尭俊の言葉に、天恢も大きく頷いた。

 平家を滅ぼしたのち平泉から消えた義経。鎌倉が放った密偵の探索。物語は展開する。『奥州平泉黄金伝説の殺人』(平11)。藤原三代の栄華を支えた黄金はどこから採れたのか?
 衣川で黄金伝説の取材中、金鉱脈の新説を聞いた主人公は。スクープに胸躍らせ、現場へ。奥州を舞台にしたものがほかにもある。『みちのく王朝謀殺事件』(平1)は、藤原清衡をテーマに、後三年の役の物語と現代の謎解きという二部構成になっている。やや奇想な展開であるが、『秀衡の征旗』(平10、11)は、源平の戦いに奥州藤原氏が立ち上がったら? というもの。秀衡は奥州軍を南下させ、鎌倉を殲滅…。最近の『義経の征旗』(平16)は、題名の変更であり、連作ではないらしい。なお中津は、「藤原秀衡」(『歴史読本』平6・3)でも、秀衡は鎌倉侵攻の機を逸したと推論している。
 義経蝦夷に渡って軍資金を埋めたという秘宝話をめぐる『義経埋宝伝説殺人事件』(荒巻義雄・昭60)は、蝦夷地渡りの伝説を根幹に進行するが、『東日流外三郡誌』という新資料を駆使しているところに、内容としての説得性をもっている。井沢元彦の『義経幻殺録』(昭61)は異色もの。北行伝説とは別に、義経清朝祖説という言い伝えがある。大正十年の上海を舞台に、この歴史の謎と殺人事件に挑戦する探偵役として芥川龍之介が登場している。
 三好京三の『生きよ義経』(平2)。腰越から京都へ引き返した義経は、もう一組の義経主従を結成。別ルートで平泉をめざす。弁慶と果てたのは誰か? 同じ三好の『吉次黄金街道』(平3)は、金商人、金売り吉次を描いたものである。




 ところで、義経生存説側の根拠は何か。それは、義経の首級が鎌倉に着くのに死後一ヵ月半たち、あまりに遅いこと、時は夏にあたり、酒に浸してあったとしても、本人かどうか果たして確認しうる状態だったのかという疑問である。
 これに対し、たとえば高橋富雄は『義経伝説』(昭41)に「首級を途中にとどめたのは、鎌倉の指令によっているが、その間鎌倉がわは、義経の生脱とかにせ首とかに対する警戒を、まったく示していない。あれほど疑い深い頼朝がこうも信じ切っている裏には、ちゃんとした事実の保証があるといってよい」と書き、石井進も「何ひとつ史実の裏づけをもたぬ虚構であり、とうてい信ずるに足りない」と言っている(『鎌倉幕府』・昭40)。鎌倉幕府の公用記録ではあるが、確かに『吾妻鏡』には「(義経)持仏堂に入り、まづ妻廿二歳。子女子四歳。を害し、次に自殺す」(文治五・閏四・三〇)とある。
 それにしても、義経入夷説では新井白石(『蝦夷志』)まで登場し、なお成長する義経伝説の力強さには驚くばかりである。




 さて、前掲の井沢元彦には、義経を扱った作品がもう一本ある。『義経はここにいる』(平1)である。ここでの結論は「義経は平泉で死んだ」とするもの。主人公は、中尊寺一字金輪仏は、藤原一族の怨霊封じのために、頼朝が作らせたものとする説を立てる。

   南条は苦笑して、
  「鎌倉政権が真に恐れたのは泰衡の怨霊だ。そして金色堂とは魂の獄舎であり金輪仏はその監視者だ」

 深い恨みを抱いた人間(義経)が死ぬ。死ねば怨霊になる。
怨霊は大きな祟りをなす。怨霊は生まれない方がいい。では怨霊が出現しないためにはどうすればいいか。その人間は死ななかったと考えればいい。当時の御霊思想をもとに、義経不死説が八百年の長きにわたって語りつがれてきた理由を論理的に説明している。義経もそろそろ本当の眠りについてもいい頃だろう。ぼくもこの説をとりたいと思う。
   南条は快心の笑みを浮かべて、
  「解けたよ、義経伝説の謎が」
  「えっ」
    「義経はどこへ行った――この問題の最終解答をついに見付けたんだ」
  「本当ですか」
  「義経は死んだ。この平泉でやはり死んだんだ」

                      「エピローグ 八百年の幻影」より
 義経北行譚は、今もわれわれに限りない推理への可能性を提供しつづけてくれている。



【注】
中津文彦には、昭和二十五年の学術調査の結果から稿を起こし、義経北行の背景に泰衡の行動をからめて考察した論文「平泉を滅ぼした男・藤原泰衡の謎」(『歴史街道』PHP研究所、平3・9)がある。ほかに「常陸海尊の秘められた任務」(同、平4・1)、「消えた黄金と忠衡の秘密」(同、平4・10)、小説『闇の弁慶』(平2)など、義経関連について精力的に活動している。
②中津の義経関連。「源義経は死なず」(『歴史と旅』、平7・7)は、「なぜ、義経の墓がないか」という疑問から、仮説へ。ほかに「北行伝説に隠された秀衡のシナリオ」(『歴史街道』、平5・6)、「義経はどこへ消えた?」(同、平5・12)、「滅びの方程式」(同、平6・10)、「吾妻鏡の矛盾」(同、平7・2)「義経は奥州支配の野望を抱いていた?」(同、平7・6)、「ジンギスカン説はなぜうまれたか」(同、平8・2)がある。
③『義経幻殺録』では、義経清祖説にまつわる「玉牒天潢世系」という秘本(実は偽書)があらわれる。江戸時代の偽書騒動。義経の入金説。近江の沢田源内という人物がしかけた。史書『金史』の別本に義経についての記述を見つけたとして、話題になった。それによると義経は、蝦夷から金へ渡り、その子とともに金朝に仕え、功績を立てて将軍に就任したという。が、のちに、『金史』には別本は存在しないことがわかった。『金史別本』は、源内が書いた創作だったのである。
④井沢は「義経伝説の周辺」(新編『義経記』・月報)という論文も書いている。
⑤歴史推理に欠かせない登場人物として郷土史家がいる。「義経もの」においても例外ではない。なかでも『黄金流砂』の伴老人、『義経はここにいる』の広山敏彦は傑作。北行説のあらましを説明する案内人として、また主人公に新たな視点を教示する役として、それぞれ異彩を放って絶妙である。