(一)

― ひみこが大和にいないわけ ―              小合彬生 会員
1、はじめに
 OB会報への次の連載です。邪馬台国大和説と九州説の比較を、楽しくまとめようとしたものです。
 前回同様、すこし手直しを加えながら、ご紹介したいと思います。
当会報での邪馬台国論も回を重ねました。ひみこの邪馬台国は九州にありました。ご理解頂けましたでしょうか。しかし、大和説もマスコミを篭絡し、この頃の反撃は想像以上。日々激しさを増しています。
 三角縁神獣鏡をひみこの鏡と断定し、考古学上の出土品をかざして反撃に出ています。しかししかし、今回もわたしは魏志倭人伝さえよーく読めば、大和説は成立しないことを立証します。
2、邪馬台国大和説とは
 大和説とは、「奈良県」にひみこがいた説です。多くの遺跡が出土し、古事記日本書紀に繋がる「やまと王朝」が活躍したところです。地元の住民には大和説支持者が多く見られます。
 大和説では、ひみこの邪馬台国を近畿に持ってくるため、九州は博多にあった「不弥の国」から出発し、投馬を経て,邪馬台国に「至る」60日もの旅を、郡使に追加しています。
 これが原典、倭人伝に全く無理な解釈を強いているのです。ほとんどの問題はここに起因します。よろしいですか、つぎに、大和説の問題点を挙げてみましょう。
3、永年の間に誤写がある
 倭人伝を含め古い文書は、永年にわたる筆写の間には、必ず誤写が生じていると大和派は強調しています。
 「不弥より南へ水行する」という記述の箇所は、じつは「東」と書かれていたのだが、誤写により南となった。学者もこう主張します。
 こうしないと、瀬戸内海の東、近畿圏に至らないからです。しかし、「女王国以北」が「以西」でないのは、どう見ても矛盾しているようです。本居宣長も、すでにそう云っています。 
4、日本列島は南北に長かった?
 前の説明が矛盾を示したので、これに代る案が提出されました。朝鮮半島で西暦1402年に作られた「混一疆理歴代国都(こんいつきょうりれきだいこくと)之図」によると、日本列島が南北に長く描かれています。「伊都国の南の方に大和があったとむかし信じられていた」証拠だと云うのです。
 これは、僧行基にちなむ行基図を使用したせいでしょう。その図では西方浄土を上にして地名が記入されています。これを、北を上とする蒙古系の図と合体(混一)させた際、わが国が南北に長く描かれ、東が南に変わってしまったというのです。 
 ともかく、ひみこの時代から千百余年後に作られた地図を根拠とするのは、ちょっと無理があります。
5、距離の検討で大苦労
 帯方郡から女王の都までは、万二千余里と書かれています。伊都のクニまで、万五百余里ですから、大和説論者は、残る千五百余里で奈良盆地の「大和」に達しなければなりません。
 三世紀の一里がどのくらいの距離だったか、簡単な例は、末盧〜伊都のクニの間の五百里です。これは郡使たちが歩測した距離だと私は思います。現在、唐津筑前前原間の鉄道距離は30km。これで計算すれば、女王の都は、伊都から90km付近か、それ以内になくてはなりません。 
 これでは九州から出るわけに行きません。近畿圏に女王の都を想定するためには、ここはなんとか理屈を見つけねばなりません。
 次元の異なる「時間軸」つまり、日数を導入し計算を不能とするとか、不弥国から東には、じつは「倭人の里数」が使用されていると主張したり、とにかく苦心します。

6、日数で、また大困りになる
 不弥国から女王の都までの日程のことです。投馬国へ水行20日、続いて邪馬台国へ水行10日と陸行1月、合計60日の大旅行です。
 たった90km前後の旅にしては、この日数は多すぎます。そこで、1月は1日の誤写ではないかと疑う人も出るし、いやいや、距離自体が「誤写」でないかと疑う人もいて・・・疑えば「きり」がありません。
 良くないのは、「ここが誤写である」と、思い思いに修正する動きです。これを見て、世間の便乗派は、大先生のやり方を真似、原文を都合よく修正して「おらが村」へ邪馬台国を誘致しだしました。
 まさに「解が発散する」危機です。邪馬台国の候補地は、もう百ヶ所を超えたと聞きます。
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050214 (へつづく)