つれづれなるままに〈アダムとイブ〉について

                                    山田皓一 会員
 小さい頃、富士房発行の旧約物語という子供むけの本(昭和7年刊)を読んだ。その中に神はアダムの肋骨を取ってイブをお作りになった、と書いてあった。
 それ以来、女は男の助骨で出来ていると信じていた。
 それは、助骨を一本削って、手も足もない、頭があるだけの、一本の棒のような「ひとがた」を私は想像していた。日本の遺跡から出土する木の細長い薄板の上部を両側から切り込んで頭の形にしたようなものを考えていた。
 しかし、そんなもので人間の女が作れるのだろうか。第一、大きさが違いすぎる。それに、骨だらけの女など真平ご免である。これは、ずっと抱きつづけてきた素朴な私の疑問だった。
 数年前、日本・ユダヤ文化研究会に入会させて戴いて、旧約聖書を読み直し始めた。そして問題の箇所を聖書から抜き出してみた。そしてその箇所毎に、やっと辿りついた私なりの聖書の読み方、私なりの解釈を聖書の原文と一対一で並記してみた。
 以下、諸先輩、諸先生の御批判を賜りたい、と思う。
なお、原文引用はすべて『新共同訳』創世記2章からである。したがって引用は(―5)のように表記する。 

  1. 水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。(―6)
    • 土の表を水が潤した。即ち、乾いた土は水っぽい泥になった。
  2. 土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくった。(―7)
    • 塵とは?吹けば飛ぶような細かい粒子が塵である。土に水を加え、よく攪拌して、そのまま放置すると、荒い粒子の土は一番下に沈み、上層になるほど、土の粒子は細かくなり、一番上が最も粒子の細かい土の層になる。この最も細かい粒子の土を塵といったのである。
    • このとき、忘れてはならないのは、前項の、「土の表をすべて水が潤した」(―6)という一節である。即ち非常に細かい土(塵)に水が加わり、泥土になった、ということである。
    • この泥土(即ち粘土)で人形の塑像を作った。この場合、人間と等身大の塑像を作ったと考えたい。なぜなら、神がお作りになった人の形の大きさが、その後、変わったとは聖書に書かれていないからである。粘土の塑像は日本の古墳や遺跡から出土する土偶と実質的に同じ技法で作られただろう。
  3. その鼻に命の息を吹き入れた。(−7)
    • 日本でも、何等かのやり方で土偶に命を与え、それを自分の分身、「かたしろ」として祭祀に際して、人間の代わりとして埋めたことが考えられる。この時、土偶に息を吹きかけたり、紙を切って作ったヒトガタの場合だと、これで身体をさすって、魂を紙に移したように、土偶を身体にすりつけたり、あるいは息を吹きかけて、命を分け与えることが儀式としてあったのではないか。 
    • したがって、旧約時代には、土偶に息を吹きかけて、命を与える儀式を行ったことが、このくだりからうかがえる。
  4. 主なる神は、そこで、人を深い眠りに落とされた。(−21)
    • 旧約時代には、すでに医学的麻酔の概念と手法(薬品、薬草を使った)が存在し、何等かの麻酔をかけなければ、人は胸を切り開くような手術には堪えられないことを知っていたことを示す。
  5. 人が眠りこむと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。(−21)
    • 何故、あばら骨でなければならないのか、という疑問が起こる。別にとりわけて、あばら骨でなくても、他の骨、例えば背骨、歯等では、なぜいけないのか。
    • 主なる神は、塵で人間を形づくり、その鼻に命を吹き入れられた(−7)、とあるのを思い出してほしい。
    • 息をするのは、鼻でするのである。即ち息(呼吸)は鼻の穴を出入りしそれによって人は生きている。生きている間、呼吸を止めることはできないし、大切なことは、この呼吸作用は、無意識に行われているということである。即ち、呼吸は、神から最初に与えられたものであり、人間が意識的に行うものではない。即ち、神が人間に呼吸をさせておられるのであり、人の呼吸は神の息の呼吸であり、したがってそれは生命そのものである。
    • もうひとつ、人間が生きてゆくのに不可欠なもの。それは心臓の拍動である。
    • 現在、病院における死の判定は心拍停止と呼吸停止である。これは心肺停止といわれている。人の心拍と呼吸はどこで判るか?旧約時代には、それは相手の胸に自分の手を当て、相手の胸の上下で呼吸を、自分の手に伝わる相手の心臓の拍動で心拍を診たとおもわれる。即ち、生命の表現は人の胸部にあり、したがって人の生命は人の胸部に存在すると考えられていたと思う。そしてその胸部はあばら骨で包まれている。
  6. あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。(―21)
    • 神は、アダムの生命が存在する場所である胸のあばら骨の一部をその肉と共に抜き取り、それで女を作った。
    • 抜き取った跡の傷口は、骨と共に肉を取られているので、肉でもって、その穴をうめた。
    • では、なぜあばら骨の一部でなければならないのか、 という疑問が起こる。
    • さらに、あばら骨の一部を抜き取られる以前のアダムのあばら骨は、どんなあばら骨だったのかという疑問も起こる。
    • 聖書には、アダムはそのあばら骨の一部を抜き取られたと書いてあるがその抜き取られた骨のあとに、骨が新しく自動的に再生した、とは書いていない。
    • 即ち、あばら骨の一部を抜き取られたままになっているアダムの胸こそ現代の男(あえて女とはいわない!)のあばら骨の通りなのだ、と考えるのが最もすなおである。
    • したがって、現在の男のあばら骨は、アダムのもともとのあばら骨からその一部を抜き取られたあとの状態なのである。
    • 抜き取られる前の人アダムのあばら骨は現状の男のあばら骨に、イブ(女)に移された男のあばら骨を戻して、加えた形であった。即ち、神が創りたもうた時の人(アダム)のあばら骨は、現在のあばら骨の2倍の本数が間隙なくびっしりと上下に並んでいたか、あるいは鳥の胸骨のように、幅広く一枚のあばら骨であったのである!
    • 神はそのびっしり並んだあばら骨から、一本とびに上から下へ抜いていかれたが、板状の胸骨を横に平行に幾本かに切り離し、上から下へ一本とびに抜いていかれたのである。その時、あばら骨と一緒に、その骨に付いた肉(今日でいえば胸の構成要素である肺や心臓の一部)も横切りにして、骨に付けたまま抜き出されたのである。(心肺の働きは生命そのもの)即ち、人(アダム)の胸(生命)は、横に何段かに切られ、肺や心臓も一緒に横に切られ、ひとつ置きに抜き出されたのである。男の残ったあばら骨は、現在の男のあばら骨の形に残り、抜き取られた跡の部分は、骨も内臓も抜かれているので、肉でふさがれ、今日の男のあばらになった。(傷口の整形と縫合)
    • アダムから抜き取られたアダムのあばら骨の一部(肺や心臓の横切りも付属しているあばら骨)を組み合わせ、神はアダムと同じ形の胸を作られた。胸(骨だけではなく肺や心臓もある胸)には生命が宿っているので、こうして新しく作られた胸には、アダムの生命の分身が宿った。これが女である。
  7. 女を造り上げられた。(−22)
    • 神は、この生命を持った胸(アダムの骨と肉の分身)をもとにして、女を造り上げられた。即ち、胸以外をお造りになった。この女はアダムからすでに生命を分け与えられているので、神が命の息を吹き込む必用はなかった。旧約聖書にも、神が女の鼻に命の息を吹き込まれたと書いていない。即ち、その必用がなかったのである。
  8. これこそわたしの骨、わたしの肉(−23)
    • アダムからあばら骨の一部を抜き取るとき、骨だけではなく、骨のまわりの肉(肺や心臓などの一部)も、骨につけたまま取った。それ故、わたしの骨、わたしの肉なのである。