(176)  死ぬことの意味

                         阪本信子 会員
 『平家物語』は「死の文学」ともいわれますが、義仲の死を初めとして、一の谷合戦、壇ノ浦、平家一族最期の人六代の処刑に至るまで、いろいろな死に様が描かれています。
戦いに臨むとき、武士たちは自分の死を犬死にしない為、はっきり言えば、自分の死が子孫に何らかの利益をもたらす事を願って死にます。
 「タダ」では死にたくありません。
 しかし、いくら勇敢に戦い、壮烈な討死をしても何の報いもない場合があります。
 つまり負け組に属しているケースですが、その場合も出来得れば一族総てが一方のみにつくと言う事はなく、例えば兄弟、親族が敵味方に分かれるという方法で、一族全滅を防ぐ保険としています。
 しかし、義仲の家臣樋口兼光の家人、茅野太郎光広は弟が源氏方にいました。彼らはそれほどの大物でもなく形勢不利となれば、弟のいる源氏に降伏するという手もあったはずなのに、自分の壮烈な最後を信濃に残した息子に伝えて貰いたいと、見事に戦って討死しました。
 計算づくのこの時代に、男のプライドを貫いた感銘を受ける話です。
 近代戦からも感ずるのですが、戦争は死ぬことに意味を持たせ、平和は生きることに意味を持たせるメカニズムがあるような気がします。
 しかし、昨今は平和な時代なのに死にたがる人が多いのはどうしたことでしょう。
 まさしく、戦乱の時代なのかもしれません。  (つづく)