(158) 都を捨てた後悔先に立たず

                              阪本信子 会員
 昔、緒方氏は宇佐八幡大宮司職を宇佐氏と争い、敗れたといういきさつがありました。
 いらい、緒方氏は緒方荘を宇佐八幡宮に寄進し、その荘官として臣従していたのですが、この頃は緒方荘からの年貢、租税を宇佐八幡に収めず、主筋の宇佐八幡宮との関係も下克上を呈し、不穏な状態でした。
 一方、藤原頼輔も宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺所領のうち、浦部十五ケ荘を横領し、宇佐八幡宮と争いの最中でした。
 つまり、頼輔、緒方にとって共通の敵が宇佐八幡宮であり、そのバックにいる平家も同類と考えています。
 頼輔は「平家を追い出せ」という偽の院宣を維義に与え、この大義名分によって、軍兵の集まり具合も好調で、緒方勢が大宰府の行宮を攻撃するとの情報も聞こえてきました。
 平家は女子供連れで戦いは出来るだけ避けねばならず、土砂降りの雨の中を、やんごとなき女たちも袴をたくし上げ腰帯にはさみ、徒歩で落ち延びました。
 山鹿城への道程は五十キロ以上あり、普段は輿か牛車で移動している女房たちが、本当にこの様な姿で歩き続けられたのか疑問ですが、平家作者の平家の凋落を誇張するための手法だと思います。
 しかし、都を捨てたのは間違いではなかったか、そんな思いが皆の頭をよぎったにちがいありません。(つづく)