(156) 清盛の贔屓が生んだ格差

                              阪本信子 会員
 清盛は平家の経済基盤である日宋貿易の拠点である九州に副都構想をもっており、現地武士を組織し、特に膨大な所領を持つ宇佐八幡宮の大宮司公通とは親密な関係を持っていました。
 つまりこの地方で力を持っている者達は、ほとんど清盛によって領地、官職を得ており、平家が甘い夢を抱いたのも無理はありません。
 宇佐八幡宮の大宮司といえば朝廷の任命するポストで、行政権、任免権をもつ官僚でもあり、清盛は自分とほぼ同年齢の公通と個人的交友関係があり、自分の娘を正室として入れ、宇佐八幡宮の権勢拡大を支えています。
畿内と違って大寺院、大神社の少ない九州において、宇佐八幡宮への荘園寄進は多く、また八幡宮の元締めとして中央貴族、皇室からもあり、自ら開墾もし、買い集めなどにより九州全土のその所領は八幡宮16,000町歩、神宮寺(弥勒寺)8,000町歩に及んでいます。
 九州には他に大宰府天満宮、宗像神社、香椎宮筥崎宮など、何れも社領の多さを競っていますが、この頃は宇佐八幡宮が最大の勢力を誇り、大宰府さえ圧するものでした。
 これは何といっても清盛の肩入れがあったからです。
 しかし、平家には足を向けて寝られないほどの恩を蒙りながら、宇佐公通はこの時、平家への支援は一切しておりません。
 清盛によって栄えた宇佐八幡は清盛の死によって力を失い、平家が都を捨てる前に、すでに緒方、臼杵など家来たちは宇佐八幡宮の支配から脱し、八幡宮自身、平家どころか自分の足元に火がついていたのです。   (つづく)