(134) 信子随筆 「馬哀歌」

                              阪本信子 会員
 「平家物語」には馬に関するエピソードが沢山あります。
 平知盛は一の谷合戦において、愛馬に乗り二十余町を泳いで沖の船に辿りつきました。舟には馬を乗せる余裕もなく、阿波民部は敵に奪われるよりはと殺そうとしますが、知盛は「我命を助けてくれたのを殺すわけには行かない」と、それを止めます。当時の馬の重要度、貴重度から考えて敵の戦力増強に利する馬を敵の手に渡すのは常識外れですが、知盛のヒューマニティな資質を示す一例です。
 それに引き換え、源氏の馬の可哀想なこと、「馬も四足、鹿も四つ足」と理論的には全く通用しない屁理屈をつけて鵯越の坂落しの実験台にしました。
 しかし、戦いとはそういうもので、人間でさえ消耗品ぐらいにしか考えていないのですから、馬など物の数ではありません。
 第二次世界大戦のとき、馬はどんどん徴発され軍馬として中国大陸や南方に送られました。
 これらの馬で帰ってきたのは1頭だけといわれています。
 しかし、東京において徴発を免れた馬はまだ千数百頭残っており、昭和20年3月10日未明の東京大空襲で約10万人の人間が命を失った一方で、江東区砂町地区で運搬用に残されていた数百頭の馬が焼死したことは余り知られていません。
 平和になっても年間2000頭以上の馬が人間にとって役立たずとして処分されていることを思えば、馬にはいつの時代も受難の時代なのです。(つづく)