(128) 信子随筆 「『うつ』もまた楽し」

                              阪本信子 会員
 明治44年夏目漱石は和歌山の講演で「文明開化に流されまいとふんばっていると神経衰弱になる」と話しています。
 神経衰弱という病名は私の幼い頃にはしょっちゅう聞きましたが、現代の医者なら「うつ病」と診断するでしょう。
 天保のころには神経痛という新語ができていたのですが、一般には普及せず、相変わらず「狂」「癇」という漢方的な呼称が通用していました。
 東京になると政府は明治青年の一部が睡眠、栄養も十分摂らず、戸外運動もろくろくせず、頭脳運動が過ぎると神経痛になり危険であると忠告しています。(トランプ遊びの「神経衰弱」は実に適確な言い方です)。
 小学校教育が義務化するとこれを「脅迫就学法」と称し、貧民の小児などに頭痛、神経痛が増え、登校拒否の口実として「脳が悪い」「脳病」と言う表現が使われています。
 明治30年代より東京に脳病院の看板が目立ち、明治32年〜42年には東京近辺で7病院が開業しています。
 その一つ青山病院(帝国脳病院)の初代院長は斎藤紀一で、歌人斎藤茂吉の義父にあたります。
 木戸孝允はしつこい頭痛を「脳病」と日記に書き(明治6年)、18歳の北村透谷も恋人に頭痛を「脳病」と打ち明けています。
 樋口一葉は師の半井桃水に自分は「脳病」であると話し、その他多くの明治の作家たちにも「脳病」らしきものは大勢います。脳病というのはひょっとしてインテリ層のかかるステータスかもしれないと考えると、「うつ」もまた楽しいと思えてくるのです。(つづく)