(117) 信子随筆「老後は極楽志向」

                              阪本信子 会員
 平家物語を読んでいると、この人は地獄行、あの人は極楽行と意識して作者が書き分けているのがよくわかります。
 地獄行き確定の人、例えば清盛など念仏の一度も唱えず「あっちっち」と悶え苦しんで死にました。極楽行き確定の源頼政は戦いの忙しい最中でも、異本によっては念仏300遍唱え、しかも、ちゃんと辞世まで詠んでいるのですから、絶対極楽で安らかに暮らしているでしょう。
 少なくとも中世の人達はそれを信じていました。
 「往生要集」の地獄極楽の風景は身の毛もよだつほどの凄さで、死後の苦しみを思えば、それから逃れられるならば万金を積んでも惜しくはなかったでしょう。
 地獄極楽商売は大繁盛です。
 死後の世界の存在を信ずるかどうかは、神仏の存在を信ずるかどうかにかかっているのですが、私の場合これぞという信仰の対象を持たず、ありもしない地獄極楽にふりまわされ、生きている間から拘束されるなんて無意味なことと思っていました。
 しかし、年齢を重ねると悪知恵が身に付くもので、得か損かを考えた時、極楽はあると考えた方が無難ではないか。
 ましてや、もう何時死んでもおかしくない年齢です。
 地獄極楽そんなものある筈がないと、やりたい放題の悪徳の限りを尽くして死んだとき、本当に地獄があって血の池、針の山行きとなれば、その時後悔してももう手遅れです。
 備えあれば憂いなし、善行を積めば間違いなしです。(つづく)