(101) やはり後白河は役者が一枚上

                              阪本信子 会員
 公卿会議の席上で、父清盛の非礼を詫び、法皇に政権をお返しするという、一見無条件降伏したかのような宗盛の本意はどこにあったのでしょうか。
 実はこの会議の招集は宗盛が法皇に持ちかけたものでした。
 いまや兵糧、兵員調達は平家独力では無理になっています。
 このときの検討議題は「関東乱逆について」で、もしこの席で「関東追討を継続すべし」との議決が下れば、法皇をはじめ廟堂の意志として国家を挙げての追討ということになり、兵糧、兵員の調達が容易になるだろうと考えたのです。
 つまり、いままでの東国討伐は高倉上皇安徳天皇の名において行われているが、内実は平家の私的戦いであると皆考えていて、閣内の一致協力は見られませんでした。
 しかし、公卿会議で決議されたなら、後白河法皇のお墨付き「院宣」が発行され、事情は変わります。
 宗盛としては「東国追討の継続を諮る」会議において、「継続する」という結論を期待し、というよりこういう決議が出るに違いないと信じていたのかもしれません。
 所が結果は彼の意に反したものでした。
 院宣をもって追討軍派遣はしばし停止し、この旨を頼朝、義仲に伝え、彼らの出方、反応をみて次の対策を考えようという宥和的なものでした。
 しかも、平家が引き続き兵糧、兵員を調達するのは差し支えないというのですから、平家にしてみれば全く以前と変わらず、苦労は少しも減らないのです。
 土台、頼朝等反平家勢力に対する認識が平家と法皇では違うのですから、宗盛が自分と同じ考え方を法皇もするだろうと思うこと自体がおかしいのであり、やはり宗盛の甘さを感じ、残念ながら清盛の政治的DNAは引き継がれていないようです。(つづく)