(100) 清盛死ねば後白河の天下

                              阪本信子 会員

 清盛が無念の思いを残して死んだあと、果たして平家は清盛の危惧した通りになりました。
 宗盛では到底海千山千の後白河法皇と五分五分に渡り合うのは無理で、今まで持っていた国政主導権を維持することはできませんでした。
 法皇院政を復活したのは、なんと清盛が死んで2日めの閏2月6日でした。
 その日、院の殿上に左大臣経宗ほか10名の公卿が集められ、公卿会議が開かれましたが、この事は実質的院政の開始と言えます。
 この席上宗盛はこう言っています。
 「兼ねて父の政治的行為については、私もどうかと思うところがありましたが、諌めることが出来ず従ってきました」と先ず清盛の行為を否定し「父が死んだ今は、万事院の思し召しで政治をして下さい」と無条件降伏とも見える低姿勢で謝罪の言葉を述べています。
 僅か2日前に死んだ清盛の遺言を思うと、宗盛のみならず平家一門の弱腰、不甲斐なさを感じ、何たる親不孝かと私としては叱咤激励したくなるのですが、このときの身を切るような宗盛の言葉には、平家の起死回生をねらった捨て身の目論見がありました。
 つまり、現在の状況を変えるには、後白河との関係を修復せねばならなかったのです。(つづく)