(92)庶民の追い風は義仲に

                              阪本信子 会員

 城氏の総帥助永が出陣した途端に脳溢血で急死したのを「平家物語」の作者は、南都を焼いた平家に味方した報いだと書いています。
 そう言われても仕方のないほど、横田河原の戦いの敗北は城軍を壊滅状態に追い落としました。
 弟助職が家督を継ぎ、農繁期の過ぎた5月に再び軍勢を催し、千曲川のほとり横田河原で両者は対決します。
 この地は戦争のメッカといえるような地で、戦国時代の上杉謙信武田信玄川中島の戦いもここです。
 この辺は正常時でも馬で渡れるくらいでしたが、この頃は旱魃ですから、渡るのはより簡単だったろうと思います。
 城氏の信濃への進攻は朝廷の命による義仲追討ですが、本命は未納年貢の納入を武力で督促するためでした。
 しかし、越後から長野への行程で公称2万騎といわれる大軍の移動は、まるで「イナゴ」の大群が移動するのと同じで、下手をすれば、通過した後には草木の一本も残らないという事態になりかねません。
 農民たちは自分たちが助かるためには、何としても義仲に勝って貰わなくてはならなかったのです。
城氏の情報はせっせと義仲に通報し、義仲の情報は極力城軍には隠し通す。義仲には天が味方したようで、奇襲作戦は大成功しました。(つづく)