(85)早死で高まった高倉名君説

                              阪本信子 会員
 平家作者によって、こんな立派な天皇はまたとないとの最高の讃辞を呈されている高倉上皇が亡くなられたのは、南都炎上から半月余り後の治承五年1月14日のことです。
 死亡原因は結核で当時は不治の病とされ、いかに手当てを尽くそうと抗生物質もなく、日々悪化していくのは仕方のないことです。
 病気平癒のための二度に及ぶ上皇厳島参詣も、病状を悪化させただけで、神社寺々をあげての祈祷も病状好転には何の役にも立たず、還都の直後からは枕もあがらぬ状態で、遅かれ早かれ死ぬのは時間の問題でした。
 しかし、平家作者は清盛の悪行が病状を悪化させ、決定打といえるのが南都炎上としています。
 良い人間が悪い人間のやったことを気に病んで早死したという分かりやすいお話ですが、その良い人をより以上に美化するため、「紅葉」では他の天皇の逸話を高倉天皇のものとし、「葵前」では天皇として分別ある判断をされて、一人の少女が捨てられ、死んだというアホらしい作り話、「小督」では清盛が尼にして追い出したという作り話まで用意して、高倉上皇が仁徳篤く高潔な人間だと念を押し、その分清盛の悪人度が高まるという計算です。
 しかし、清盛は不世出の政治家であり、高倉天皇は普通の天皇です。どちらが善か悪か較べるのはおこがましいとは思われませんか。どだい格が違う!  (つづく)