(80)紅旗征戎吾が事に非ず

                              阪本信子 会員
 保元平治の乱以来、警察権、軍事権は平家の専売特許となり、平家自身もそれを自認していました。
しかし、平家の徴兵能力は明らかに減少、低下し、清盛はここに至って今まで対象から外していた貴族、受領、荘園領主、寺社に対し、内裏警護の名目で兵員、兵糧の徴発を命じました。
 12月10日のことです。
 これまで戦いというものは他人事と考えていた貴族たちにとってこれは青天の霹靂で、当時散位で求職中の藤原定家にも割り当てが科せられています。
 「紅旗征戎吾が事に非ず」(いかに世の中が戦いで混乱していても、自分とは全く関係がないことで、自分には歌の世界がある)と格好よくうそぶいていた定家ですが、否も応もなく戦いに巻き込まれる事になりました。
 しかし、貴族といえば官僚、政治家なのです。世の中のことに無関心とは、無責任というべきでしょう。
 しかし、貴族たちが提供した員数のうち戦闘に耐えうる者が何人いたかは疑問で、員数あわせの駄馬、老弱の者が多かったのが実状だったと思います。
 しかし、清盛が還都を決意したのは彼らから兵員、兵糧、物資の協力を取り付ける為でもあったと考えれば、うなずけます。
 そして、もう一つ重要なのは後白河法皇の残存勢力の一掃ということでした。 (つづく)