(79)雌伏近江源氏の逆襲

                              阪本信子 会員
 半年に及ぶ福原京は幕を下しましたが、事態は半年前より悪化していました。
 比叡山からの還都要求を聞き入れたことで、山門は一件落着したかと思ったのですが、この頃山門では大衆が平家サイドの天台座主明雲から離れ、近江の反平家勢力と結びつき、清盛が明雲を通じて行ってきた山門対策はほころび始めていたのです。
 京都へ還って直ぐ行われた公卿会議では、「東国の謀反は日を追うて増強し、すでに近江国に及んでいる、どうすればよいのか」が論議されているが、これは既に近江国の殆どは近江源氏が掌握していたからです。
 近江源氏の山下(山本)義経新羅三郎義光の子孫で、平家全盛の頃は比叡山の傘下にあった一地方武士でした。
 彼は弟の柏木義康、山門大衆とともに北陸からの運上物を奪い、京都への物資搬入の遅滞に清盛は警戒感を高めました。これが還都を清盛に決心させた直接的理由ではなかったかと私は考えます。
 清盛は京都へ還るや直ちに富士川の屈辱をはらさんと、征討軍を組織し近江へ派遣しました。彼らは夫々に成果を収めています。
 しかし、局地戦は少数の平家精鋭部隊で間に合いますが、頼朝を相手の全国規模となると兵員の不足は明らかです。この頃の平家は独自では大規模軍団を組織する力はもう失われていたのです。 (つづく)