(42)天皇になりたかった以仁王

                                     阪本信子 会員
 所謂、以仁王の変と言われた事件の言い出しっぺは誰なのか。源頼政より以仁王の方に大きな動機がありました。
 彼は何度も皇位につくチャンスを逃しています。
 清盛の妻の妹健春門院滋子に鼻の下を伸ばし、15歳の以仁王を差し置いて、彼女の生んだ5歳になる皇子を天皇とした父後白河法皇への恨みもさりながら、その裏には清盛の天皇の外祖父になるという野望が見え隠れしています。
 皇位継承となれば門閥がものをいいますが、以仁王の母方の閑院系一族は多くの中宮、皇后をだし、男達も夫々重職にあるという由緒正しい出自で、本人も才気煥発、聡明の噂の高い皇子でした。
 後白河の皇子は11人いますが、天皇になった者を除き以仁王以外は全て出家しており、今では彼一人が皇位継承権を持つという貴重な存在で、身体の弱い高倉天皇が皇子を儲けないままに崩御した時のことを考えると未だ希望はありました。
 しかし、約十年後清盛の娘徳子が皇子言仁を生むと、以仁王皇位継承は絶望的になり、言仁が践祚して安徳天皇となった2ケ月の後に兵を挙げたのです。
 このように他に皇子がいないところから、反平家勢力にとって手持ちの駒、切り札として以仁王への期待が高まっていくのは、彼にとって不運、不幸だったかもしれません。
 天皇となるに最低の必要条件である、親王宣下さえ父後白河法皇は与えていないのですから、まさしく「いじめ」です。
 反平家カラーの中で、以仁王の平家憎しの思いは募っていきましたが、実行するにはまだまだためらいがありました。
 後から考えるとどうしてここで止まらなかったのか、愚かというには哀れな結末です。(つづく)