(39)四面楚歌の平家

                                     阪本信子 会員
 治承のクーデターは計画的でなかったため不手際が目立ちます。 中でも院政を停止させるために強行した法皇の鳥羽殿幽閉は、各勢力に武力蜂起を促し、打倒「朝敵平家」の大義名分を与えました。
 清盛の最後の仕上げは徳子の生んだ皇子言仁親王天皇にすることです。
 摂関時代にも、また院政の時代でも幼い天皇を補佐する形で摂関家上皇が権力を握る先例は多々あり、幼い天皇だから悪いとは一口には言えないのですが、安徳天皇即位については平家にとって好都合なだけに早すぎるとの非難がありました。
 ブーイングの中で安徳天皇は生後15ケ月で天皇となり、高倉天皇は20歳で退位し上皇となりました。こうなると「院政の主」は高倉上皇となり、後白河法皇は用済みです。清盛は待望の天皇の外祖父となり、これで平家政権は完成したといえます。
 しかし、新興貴族平家にとって権門勢力の殆どを敵に回していることを清盛は分かっていたのでしょうか。又しても反平家勢力、特に寺社勢力を挑発する事態となります。
 高倉が上皇となってはじめての寺社詣でを厳島に決められたのです。幽閉されている父後白河を思って、清盛の心を和らげようとの高倉上皇の考えなのですが、清盛の意向が無かったとは言いきれません。
 しかし、皮肉なことにこの厳島詣では虚弱体質の高倉上皇の病状を悪化させ死期を早め、また先例を無視するものとして、面子を潰された権門寺社勢力の反平家の機運を高め、団結を強化する役割を果たしたに過ぎませんでした。
そして寺社勢力をバックにした以仁王の変がおこるのです
。(つづく)