(37)捨てる神あれば拾う神あり

                                     阪本信子 会員
 治承の政変で清盛が目指したのは、高倉天皇による親政でした。全ての命令は高倉天皇の勅宣として合法的に発令され、貴族たちは蔭では不満をいいながら、表立っては何も反論できません。天皇というのはやはり最強の切り札で、利用価値のあるものです。
 ところがこの政変は十分計画準備した上のことでなく、自己防衛のため、やむを得ず突発的に行われたものでしたが、実際に断行されており、ここに至っては好むと好まざるに関わらず、明日から平家が政治を担当せざるをえなくなったのは当然の事で、空席となった役人の穴埋めが急務となりました。
 高倉天皇は19歳、新任の関白基通は20歳で政治には未知未熟で、その家司平信範は「呆れるほど、何も知らない」と歎き、基通自身も「一切習わず、知らず」と開き直っています。平家一門も急成長したため人材不足で公事、典礼についてまあまあ知っているのは時忠くらいです。
ということは平家与党のみならず、中立的、日和見的なものも含め、優れた器量の人間が腕を振るうチャンスが到来したのです。
 清盛は特に、後白河によって長年冷遇されていた即戦力として使える有能な人物を取り立てています。逆に有能でありながら法皇の近くに仕えていた為、罷免された人もいます。
 何が幸いするかわかりません。人生山あり谷あり、混乱状態になると浮く者、沈む者、運命を分かつのはよくある事で、捨てる神あれば拾う神あり、待てば海路の日和あり、昨今の政治地図を見てもよくお分かりでしょう。(つづく)