(33)平家繁栄に暗雲か

                                     阪本信子 会員
 皇子誕生に関わる儀式を貴族の日記からみると、何日も祝宴が続き、貴族たるもの酒が飲めなくては付き合いはできません。総じて濁り酒の飲酒量は相当なもので、副菜は貧弱で糖尿病者が多かったというのもよくわかります。
 このように皇子出産の一連の儀式に高位高官が門前市をなす有様は、藤原道長の娘彰子が皇子を生んだ時の有様と同じですが、繁栄は衰退の始まりとか、皇子誕生をピークに平家には不穏な兆候が現れてきます。その一つが重盛の死です。
 言仁親王が生まれる時、後白河法皇は清盛邸に4度も行幸され、僧達を叱咤激励し、自らも祈祷奉仕していらっしゃるのは、鹿ケ谷事件によって不調となっている清盛との関係を修復するための過剰ともいえる心遣い、サービスだったのでしょう。未だこの頃は法皇にとって平家との関係を良好に保つことが必要だったのです。
 皇子は生後33日で立太子しました。
 ここまでくればこっちのものという清盛快心の進捗です。
 しかし、危機感を深めたのが後白河法皇で、言仁親王天皇になれば順送りで高倉天皇は退位し、院政の主は高倉上皇になり、自分の必要性は低下します。虚々実々の駆け引きが激化してゆきますが、こんな時、頼りの重盛が死にます。平家にとって朝廷とのパイプとして適役だった重盛の死は、痛恨の出来事です。
 重盛は皇子の生後百日の儀式の執行委員長を勤めたのを最後にして公式の場には姿をみせず、公職辞任の後5ケ月後に死んでいます。
 42歳の働き盛りで、清盛を始め一門の落胆、悲しみはどんなに深いものだったのでしょうか。
 それを好機到来と後白河の挑発はエスカレートし、治承の政変に突入するのです。
(つづく)