(二)

http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050128 (からの続き)
邪馬台国はここだ ― 不弥の国にひみこがいた ―
                         小合彬生 会員

5、邪馬台国の首都
 さて、邪馬台国の版図が分かってまいりましたが、女王ひみこのいた邪馬台国の首都はどこにあったのでしょう。
 かえりみると、西暦57年、漢の洛陽まで使節を送ったのは「奴の王」です。
 漢から王の印綬を賜ったと伝えられています。三世紀にも、奴の国は超大国だったのですが、なんとそこに「王が居た」とは書いてありません。
 そこ(いまの福岡市)には、「奴の官・しまこ」がいました。何故、この時「王」がいなかったのでしょう。
 前回までのお話では、奴の国の都心に、邪馬台国問題を解く鍵があったのでした。
都市工学的分析と称しましたが、奴国の都「山門」(やまと=現在の福岡市西区)の中に伊都と不弥の二つの小国があって、いずれも衛星都市となっていたと推察いたしました。
6、伊都に王がいる、倭都なのだ
 超大国・奴の国の首都というべき「やまと」、に寄り添う二つの国、というより二つの宮殿の「意味」をじっくりと考えて見ましょう。 
 まず、倭人伝の記述をそのまま読んで下さい。帯方郡京城の近く)から倭国に出向いた使節は、 「伊都に到る、郡使が往来するとき常に駐在するところ」と記しています。
 「到る」の字は「至る」と違い、ここが目的地であることを示していると思います。
「伊都には王がいる」。そして王は「代々女王国を統属する」とも書かれています。
これを私は、伊都の王が、より小さい女王国の「官を管轄していた」と理解します。
 邪馬台国では、「王は、ここ伊都にだけ」、報告されています。
 たとえ千余戸の小国でも、王や、帯方郡使節、監察官である「一大率」もここにいるのです。 私は、ここが邪馬台国の首都だと思います。
 ☆ 伊都は倭都だったのです。 ☆ ☆ ☆
 その証拠に、ここからは、王のしるし「璧」を出土しています。何人かの王が、確かにここにいたのです。伊都歴史博物館には、いま3ケ分が並べられています。
7、女王は、不弥の宮に
 では、女王ひみこはどこにいたのでしょう。
 私は、女王は、もう一つの衛星都市、「不弥」にいたと推察しています。
 二つの衛星都市と、奴国の「山門」は、わずか数キロメートルしか離れていないのです。郡使は、伊都の宿舎から、倭王ともども「ひみこ」や「しまこ」の宮へ、日帰りで往復していたと推察いたします。

 郡使の報告では、ひみこは老齢でほとんど人にも会いません。郡使が持ってきた「親魏倭王」の印綬倭王が拝受しています。「女王連合国」の実務は倭王が行い、女王は連合の統合の象徴として、外交と祭祀のごく一部を担当していたのでないでしょうか。
 倭王と女王の二人が、相携えて、女王連合邪馬台国を統治していたと私は考えるのです。奴の官のいる「山門」の近くに統治の中心が置かれていたのでした。
 福岡市西区の小高い丘の上、「うみの宮」に、彼女はいたのです。偉大な女王というよりは、巫女のような存在だったと私は考えます。
 このように考えると、魏志倭人伝が、正しく邪馬台国を記録していたことが、良く分かります。
 以上、少しばかり加筆もしましたが、OB会報の記事です、いかがでしたか。
 近いうち,その他21のクニグニを入れた、邪馬台国の版図をご紹介します。

         (おごうあきお、平成17年1月)