(一)

邪馬台国はここだ ― 不弥の国にひみこがいた ―
                         小合彬生 会員
1、はじめに
 仲間うちの、九州地区のOB会報に、邪馬台国の研究を連載しています。
最近の成果を、ここでちょっと紹介させていただきます。もちろん「邪馬台国は九州である」説です。それでは・・・・       
当会報での邪馬台国論も回を重ねましたが、いまでも、いやー、君の邪馬台国はいったいどこですか? という質問にあってしまいます。そこで今回は、できるだけ分かりやすく、これまでの「研究の大成果」をとりまとめ、お話ししたいと思います。
2、邪馬台国は、7万余戸の大国
 邪馬台国の研究家の多くは、自分の住んでいるところが、ひみこの国と信じたいようです。もう、百以上の候補地が提案されていますが、皆さん、原文が永年の間に間違って伝えられたはずであると、原文にかなり都合のいい修正を加え、世間様を迷わせたりしております。 
 これではいけません。相手は中国の正史です。校正も十二分に行き届いていると思います。私は、倭人伝は正確に伝えられており、論理的、科学的に、分析すれば、その正解に到るはずだと思っています。
 さて、まず最初にその国の物理的な広さを考えてみましょう。
 いまの市町村規模の面積では、7万余戸あったという、大きな邪馬台国は、とうてい収まらないと、私はかねてから主張してまいりました。
 当時、高句麗ですら3万余戸しかなかったと云いますから、まさに7万戸とは相当の大国です。
 女王連合の一部であった「奴の国」が2万余戸。この国も、大国なのです。 
 馬韓辰韓弁韓の三国で、同じ頃、ほぼ14〜15万戸の戸数になると書かれています。 邪馬台国は、「その半分くらいの規模」です。そうしますと、この国は、九州の半分とか、近畿圏くらいの広さを持っていたと考えねば、なりません。これだけで、候補地は2〜3ケ所に絞られます。 
3、7万余戸の国は、もし江戸時代にあったと仮定すると
 当時の倭人国は、米作りが始まってからもう6世紀くらい、田んぼも広がり、農村風景も江戸時代に近くなっていたはずです。そこで、おおまかでありますが、この国の大きさを、胃袋(?)から推理して見たいと思います。
 江戸時代、大名の領地は、そこで作られる米の総量・石数で示されました。
福岡の黒田藩は52万石でした。ほぼ福岡藩に近い領土を持つと思われる奴の国は、2万余戸の大国です。

 さて、ここで昔のお米の食べ方から計算してみましょう。
 戦前の農家の台所には、「おくど」さんがあり、五升炊きくらいのお釜がありました.   でも、3世紀に鉄の釜はなかったのでは?
 じゃ、どうやって米を調理していた? 大きな問題に遭遇します。 うーん、それはひとまずお預けにして・・・まずは面積を推定することにしましょう。
 一戸に、何人いたのか分かりませんが、一戸を「ひとつ釜の飯を食う家族」と仮定しましょう。この釜で日に二回、五升の「めし」を炊くと、年に36石食べることになる計算です。もし日に一回なら18石です。 
 2万戸であれば、36〜72万石は、食べるはずです。 
 つまり、2万戸の国は黒田藩の領土とそれほど変わらない広さが必要だったと分かります。そうすると、7万戸の国では約2百万石の大名領に相当する「大面積になる」計算です。小倉の小笠原藩15万石、中津藩10万石、鍋島藩36万石などなど、黒田藩の領土に足して行かねばなりませんが、ともかく九州の北半分は必要です。
 江戸時代に正しく換算するところが、充分検証されていませんが,強いて言えば、このくらい「かな」という、米消費量の推定値です。
 かくして、邪馬台国はいまの県に直せば、長崎、福岡、佐賀、大分にまたがるくらいの広さだったと推定いたしました。
 国の広ささえ、およそでも分かれば、ややこしい釜の話はもう忘れましょう。
4、邪馬台国の境界
 邪馬台国が、対馬から不弥までの6国と、その他の21国の合計、27ケ国からなると私は考えています。これで、合計7万余戸となるのです。
 北端は、もちろん対馬の国ですが、それ以外の境界はつぎのように推察します。
 まず東。博多湾から東に玄界灘関門海峡・周防灘と周航して別府湾に至る12ケ国、私の計算によると、当時の里数で五千余里です。別府には呼邑(こゆ)と呼ばれる国がありました。別府、国東半島が女王の東の境界であり、その東に千里の海があって、さらに倭種の中国・四国地方に繋がっていたのでした。
 あの「周旋五千余里」とは、博多湾から別府湾の距離だったのです。「博多湾から釜山までの距離・五千余里」と地図で比べください。ほとんど同じです。
 南には狗奴国。いまの熊本県がライバルとして存在していました。菊池川沿いに「クコチヒク」という狗奴国の役人がいました。これに対抗する女王連合は、いまの山門郡あたりに、南の拠点「21番目の奴国」を配していたのです。
 国の西端には、佐賀県がありました。もちろん、吉野ヶ里遺跡が含まれます、
そこには当時「烏奴のクニ」があったと私は考えています。
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050129 (へつづく)