義経の虚像

義経の虚像  ―「平家物語」から「勧進帳」まで―      阪本信子

 日本の歴史上の人物で義経ほどよく人に知られ、愛されている人はいません。勿論源平の合戦というと義経がキーワードと言われるほどお馴染みです。
 とにかく義経をテーマにする芸能は大変多く、例えば「浄瑠璃」というのは、現在では義太夫を始めとする語りを含んだ三味線曲をいいますが、その語源は義経伝説から発生した語り物「浄瑠璃姫物語」からです。金売り吉次に連れられて奥州へ下る牛若丸と三河矢作の宿の長の娘浄瑠璃姫との恋物語です。これが義経物の代表的語りものとされ大流行し、節をつけて語られるものの総称になったのです。
では義経伝説のルーツといえる「平家物語」における義経はどうだったのでしょうか、ここでは戦いの天才で、少数の精鋭を率い、大軍を相手に連戦連勝で、戦の神様、英雄の名に恥じるものではありません。
彼の没落は兄頼朝との不和によるものです。
平家の捕虜を連れて鎌倉に赴くとき、腰越で止められた義経が書いた、いわゆる「腰越状」には兄を信じきっている人の良さも見られ、判官びいきの涙をそそります。
 彼の短い生涯の中で史料によって確認されるのは、二十二歳のとき、黄瀬川での兄頼朝との対面から吉野で消息を絶つまでの五年間、そして平泉で死んだときのみです。
 二十二歳以前のことは平治物語にあり、母常盤御前が三人の子供の命を助けるため清盛に身をまかせたというお話ですが、頼朝でさえ殺さなかった清盛が、たかが雑仕女の生んだ子供を殺すはずが無く、彼女は新しいスポンサーを掴んだだけのことで、清盛を悪人にするための創り話です。
 二十二歳からの分かっている期間を書いているのが「平家物語」で、それから死ぬまでの抜けている箇所を補足しているのが「義経記」です。
 しかし、これは推論から成り立っており、逃走経路でのエピソードも伝説のつなぎ合わせです。といえば身もフタもありませんが、何故義経に関する伝説がかくも大量に作られ、あるものは芸能化され、長く伝えられたかは興味あるテーマです。
 一口に言うと「義経記」の義経は実在した義経ではなく、大衆が作り上げた義経であり、判官びいきという国民感情が生み出したもので、逆にこれによって判官びいきの多くが育てられたともいえます。
 「義経記」における義経の輝かしい時代は全頁の一パーセントにも及ばず、主として「平家物語」に欠けている義経の幼少期と奥州平泉で自害するまでの一代記で、不遇の時期に焦点を置き、赫々たる軍功をあげた合戦も「寿永三年に上洛して平家を追い落とし、一の谷、屋島、壇ノ浦、所々の忠を致し、先をかけ、身を砕き、終に平家を攻め亡した。」とこれだけで終わりです。
 しかし、「義経記」の読者はこんなに少ない義経の武功記述にも拘らず、それ以上の知識をもって享受しているのは、「平家物語」を語って全国津々浦々に広めた琵琶法師の功績大なるものがあります。
 では義経の実像はどのようだったのでしょうか。
 後白河法皇の皇子守覚法親王の書いた「左記」によると、一の谷で勝利して都へ帰ってきた義経を御召しになって、直接話を聞かれたときの印象として
「彼ノ源廷尉(義経)ハ直ナル勇士ニアラザルナリ。張良三略、陳平ノ六奇、其ノ芸ヲ携エ、其ノ道ヲ得タル者カ」、つまり「中国の名参謀、名戦略家張良、陳平と同じような人物である」と誉めていらっしゃいます。
 張良、陳平は何れも漢の高祖劉邦の家臣で、張良は一度も戦場に出たことは無く、陳平は高祖の死後の呂后による粛清の嵐の中を巧く潜り抜けたという処世の名人です。
 何れも馬を駆って戦場に臨んだ猛将ではなく、頭脳で勝負するタイプで、守覚法親王義経と話してこのように思われたというのは、猛々しい風貌ではなかったということで、この時から親王義経ファンになられたのか、彼が身を隠していたときも陰になり、日向になり支援をしています。
 頼朝は義経の情報がつかめず、彼をかくまっているシンパがいると捜索させていました。浮かび上がったのが、寺社勢力界での大物、仁和寺御室守覚法親王でした。しかし、明確な証拠が掴めず切歯扼腕していたらしい様子が貴族の日記から伺えます。
 また、頼朝サイドの人間と見られる右大臣兼実でさえも「玉葉」で、義経が頼朝と対立し、あわや京が戦場になるかもしれない時、おとなしく大物浦から船出したのに安心したのか、
義経功ヲ成シ、其ノ詮ナシト雖モ、武勇ト仁義ニ於テハ、後代ノ佳名を胎スモノカ、嘆美スベシ、嘆美スベシ」
 と賞賛の言葉を述べていますが、義経遭難を聞いて「天罰だ」と本音を吐いています。しかし、義経の武功に対しては貴族たちも文句なしの評価をしていたことがわかります。
しかし、容姿と言う点では、どうもパットしない貧相な男だったらしいのです。
 「平家物語」の中で盛装して牛車で参内するときの姿は、「木曽より少しはましだが、平家のかすよりも劣っている」と都人は見ています。しかし、平家の公達のように生まれながらにして、京風マナーを躾られているのと比べるのは酷というもので、鎧姿で馬に乗っている姿が一番板についているのは当然のことです。
天才的戦略できびきびとした、すばしこい武者ぶりの義経も容姿となると「平家物語」では形無しで、盛嗣が義経の特徴を「色白で小柄だが、反っ歯」と表現し、源平盛衰記にも「面長な顔」がつけ加えられているが、何れにしてもイケメンではなさそうです。
 司馬遼太郎氏の「義経」では「奥にひっこんだ猿まなこの反っ歯」とかかれていますが、これは幸若舞の「富樫」にある人相の引用です。しかし、これでは一寸ひどいと思われたのか、「きわめて愛くるしく韓人に似た扁平な顔は明らかに都の人の顔であった」と補足していますが、世間に定着している義経像とは程遠く、司馬さんのところにはクレームが沢山寄せられたといいます。
 ところが「平家物語」から派生したとみられる「義経記」は、これ以上誉める言葉が見当たらないくらいの表現をしています。
「山、三井寺にも、これほどのちごあるべしとは覚えず、学問の精と申し、心ざま、眉目、容顔たらいたり。」
「きわめて色白く鉄漿黒に、薄化粧して眉細くつくりて、衣ひきかづき給ひたりければ、姿松浦佐用姫が領布振る山に年を経て、寝乱れ髪の隙より、乱れて見ゆる黛、鶯の羽風にも乱れぬべくも見え給う。玄宗皇帝の時ならば、楊貴妃とも謂ひつべし。漢の武帝の世なりせば、李婦人かとも疑はる。」
これはどうみても女性の美しさで、「義経記」以降の義経は女にもみまがう美男子にされてしまいました。
 つまり平家物語では義経を具体化し、血を通わせ、ぬくもりをもたせました。それを庶民の理想、ニーズに合わせて美化に成功したのが「義経記」です。
 平家物語によって義経の軍功は衆智のところであり、義経記の作者は安心して弱弱しい義経を書いているのです。
 「義経記」が書かれたのは南北朝の混乱がやっと収まった頃でしたが、足利内部抗争は下克上の気風を惹起し、君に忠より自己保身のため頼れるのは人間相互の信頼感、団結力であると考えられていた時代です。
 「義経記」は皆が智恵をだし、力をあわせて危機を脱するというストーリーです。義経はリーダーシップを発揮することなくだんだん気弱くなってゆき、これを気強い家臣が支えるという構図です。
 北陸道の逃避行はスリルとサスペンスに溢れています。頼朝の布いた捜査網をくぐりぬけるのですから、大変なことはわかりますが、それをより以上に困難にしているのが弱弱しい義経自身なのです。実際の義経と違って「義経記」の義経は戦わぬ英雄となり、代わりに家臣が戦うことになります。
 「平家物語」から「義経記」、「義経記」から謡曲「安宅」、「安宅」から歌舞伎「勧進帳」へと辿れますが、その過程で「平家物語」の意図するものは次々に捨てられ、安易に歎き、かこつだけの義経に成果てています。
 判官びいきには権力者、支配者にたいする抵抗意識が根源にあります。庶民は彼の運命の中に自分の挫折、不幸、悲運を重ね合わせ、共感をもちますが、この同情と支持は義経の実像がどうかという問題などそっちのけで育まれてゆきます。
 謡曲「安宅」が作られたのは室町時代、関守富樫は自分の職務遂行を第一としている役人で、最期まで強力姿の義経を疑い、追求している忠実な役人です。この能楽のスポンサーは大名、武士であり、職務に怠慢な関守は歓迎されなかったのかもしれません。
 江戸時代になると封建体制が確立し、身分制度の壁は厚く庶民の支配者に対する不満はつのり、それにつれて判官びいきの感情は高まってゆきます。
 勧進帳謡曲「安宅」に筆を加えたもので、江戸末期に作られた為、メンタルな面で江戸時代の特徴が見られます。
 近世になって、いわゆる判官ものといわれる芸能作品は沢山作られています。しかし、これら多くの作品には、何故か義経を主役にしているものは少ないのですが、これも「義経記」の家来たちの活躍が江戸時代の倫理道徳の中心となっている忠義に通ずる所があるからでしょう。
 これら芸能作品の中の義経は、兄との覇権争いでの敗北者であり、お家再興とか、雌伏して悪を懲らすわけでもなく、ただ逃げているだけなのです。しかし、庶民は彼の輝かしい軍功を熟知しており、それ故に却って逃亡する姿の痛ましさは倍増し、彼に忠誠を捧げる家来達に喝采を送るのです。
 勧進帳においては脇役に見える義経ですが、この役は目立つては駄目、しかし目立たなくては駄目という難しさで、単に座っているだけでも、庶民のイメージを壊してはならないのです。
 あるアメリカ人に「日本人とは何ぞや」と問うと「勧進帳」の言葉が返ってきました。蓋し名言で、一時間二十分のドラマの中に江戸時代に醸成された日本人の原点が凝縮されています。
 「判官びいき」、この奇なるものが「平家物語」の義経をかくも変形してしまった由縁と結論するものです。