(145) 官僚の処世術

                              阪本信子 会員
 勅撰集の撰進を拝命した俊成のもとへは、自薦他薦の歌がひきもきらず持ち込まれ、入選希望者からは沢山の贈り物も届けられていたでしょう。
 こんな時に平家都落ちとなりました。
 「平家物語」には忠度のエピソードが載せてありますが、私家集の詞書などから判断すると、行盛も勅撰集に入れて貰いたいと定家のもとへ歌集を届けており、平家一門の人たちはしかるべき人に夫々の歌集を託した可能性があります。
 どのようなルートで托されたのかはわかりませんが、玉葉など貴族の日記によると、都落ちの当日25日にはならず者や不法者が京に入りこんで略奪、暴行が始まっており、貴族たちは追い詰められた平家の武士たちを早くも「落ち武者」と称し、高級貴族は勿論、貴族全てが門を閉ざし戦々恐々、物騒な世情になっていました。
 彼らはもうこれ以上平家と関わり合いたくない思いで声を潜め、或る者は既に安全圏に逃げ出しました。
 異本では忠盛が俊成の門を叩くと「さては落人こそ」と返事もせず、門を開けなかった。そこで、忠盛が何度も声をかけると、俊成はわななくわななく門の所まで来たが、門は開けず忠盛は歌集を中へ投げ入れています。
 貴族のエゴイズムと非難するのは容易いのですが、俊成が官僚であることを考えると、今の官僚でさえ落ち目の人にこれ位のことはやり兼ねない態度で、俊成にとってこれは当たり前であり、上手に立ち回る処世術なのです。(つづく)