(144) 歌の世界も俗臭紛々

                              阪本信子 会員
 平忠度は都を出るにあたり、師事していた藤原俊成が当時勅撰集の撰進を命じられていた為、自分の歌を一首なりとも入れて下さいと歌集を託して西へ去りました。
 あの当時の人にとって勅撰集に自分の歌が入るということが、どれ程名誉なことか。
 それは「たかが歌ごとき」ではなく、歌によって出世の道も開けるという世俗的、実利的な性格を持っていました。
 歌の良し悪しに関係なく、高い身分の人とか時の人のお覚え目出度い人の歌が割合入選している現象は、勅撰集に顕著に見られる傾向で、裏には多分に俗っぽい因子が含まれているからです。だから勅撰集に入っているからといって手放しで賞賛するのは考えものです。
 実は、後白河に勅撰集の企画を進言したのは平資盛で、その院宣を師事していた俊成に届けたのも資盛でした。
 資盛は歌の名人として知られており、彼の歌が千載和歌集に一首も入っていないのは不思議というべきで、恐らく「詠み人知らず」として入れられていることは容易に推量できます。
 勅撰和歌集は時の人間関係、政界地図の凝縮が見られ、従ってその撰進に利権、役得といえるものが発生するのは当然の成り行きです。歌人俊成のもう一つの顔、官僚としての俊成を忘れてはなりません。 (つづく)