(112) 濡れ手で泡の勲功第一、頼朝

                              阪本信子 会員
 平家をあれほど見事に西海に追い落とした義仲が、実に簡単に悲惨な最期をとげるとは、歴史を俯瞰できる私たちにはその理由を十分知ることができます。
 やはり、政治感覚の欠如は致命傷でした。
 頼朝との和平のため、嫡子義高を人質として差し出しましたが、義仲にとって敵は平家のみであり、同族頼朝は敵の範疇に入っていなかったのかもしれません。
 義仲の使者今井兼平は「平家を攻めるのが先決ではないか」と申し入れたが、頼朝は一笑に付しました。
 義仲は源氏の内紛が平家に漁夫の利を与えることを憂慮し、和平を決断しました。
 そして、拙いことに人質提供のみならず、頼朝の要請により軽い気持で、二心なき旨の起請文を添えて差し出しました。
 だからといって心底から頼朝に臣従したわけではありません。
 しかし、頼朝はこの起請文を最大限に利用しました。
 義仲の甘さは勝利とは戦いに勝つことだと考えていたことです。
 それまで東国武士にとって義仲、頼朝は同じ源氏のリーダーとして、同格と見做されていました。
 しかし、このことによって義仲は頼朝の下にあり、頼朝主流と考えられるようになります。
 頼朝は朝廷対策も怠りなく、京において義仲の名前は頼朝の手の者として認識され、平家都落ちの論功行賞は、鎌倉にいて指の一本も動かさなかった頼朝が第一とされたのもそのためです。(つづく)