(94)軍兵募集の一番の特効薬は勝つこと

                              阪本信子 会員
 横田河原の戦いは群を抜く大豪族城氏を殆ど壊滅状態にするという大勝で、今まで日和見をしていた越中能登、加賀、越前の武士たちは次々と義仲旗下に加わり、北陸道は義仲支配下におかれ、京への年貢輸送はここに完全にストップしました。
 腹が減っては戦にもなりません。食料不足では戦う気力もなく、飢饉は戦いを一時休止させました。しかし、平家にとっては源氏進攻の幻想、飢饉に怯えながら、不安の1年余りだったでしょう。
 飢饉が少し治まってきた翌々年、平家の反撃が北陸道から始まったのは、京への食料供給地の確保が先決問題であったからです。
 飢饉といい、戦乱といい世の中は混乱の極みで、こんな時は改元によって「ゲン直し」がやられるものです。
 保元の乱から壇ノ浦で平家滅亡までの30年の間に14回の改元が行われ、2年に1度の割合です。
 いかにこの頃が混乱していたかがわかります。
 面白いのは後の南北朝時代で、北朝改元は7年に1度ですが、南朝は2年毎で吉野朝廷の不安、焦燥が推察できます。
 城氏敗れたりの報を受け、平家は2カ月後通盛、経正を大将として追討軍を北陸に進発させた。しかし、戦力を現地調達しながらの進軍で殆ど参加する者はなく、空しく引き上げている様子は貴族の日記が悲観的に伝えています。
 濁流に呑まれ、なす術もない平家、哀れです。   (つづく)