(2005/11/06)楠正成の史跡を訪ねる

楠正成の史跡を訪ねる 探訪会報告
 11月6日(日)の天気予報は全く行楽日和には程遠く、絶望的な悪天候との事でした。
 8時30分に三宮を出発した時は小雨模様で、前日が晴天であっただけに残念との声が聞かれました。
 最初の訪問地、観心寺まで阪本会員による「太平記」の話が続きます。
 今日のテーマでもある楠正成は、鎌倉御家人のように所領にしがみつき、その安堵を第一に願うものではなく、他に職業をもっている河内の豪族でした。
 当時、天皇持明院統大覚寺統の二派から交代に選ばれる両統迭立の時代で、大覚寺統から出たのが後醍醐天皇でした。彼は天皇位に執着し、天皇交代の鍵を握る鎌倉幕府討滅を図られました。
 先ず正中の変は失敗、ついで元弘の変も内部告発で露見しましたが、天皇は逮捕される寸前に笠置へ脱出されました。
 笠置にいらっしゃる時、天皇に味方した武士の一人が楠正成で、夢のお告げという手の込んだ登場をしておりますが、これは無位無官の正成を天皇が起用したという矛盾を一気に解決する方法だったのです。笠置は落ちて天皇は捕らえられ隠岐島へ流されました。
 正成の守る下赤坂での戦いは幕府軍の機動力である馬や、大軍を有効に生かすことが出来ず、地の利を生かした正成のゲリラ戦法、待ち伏せ奇襲、種々の奇策に翻弄されたのは、皆さんよくご存知です。
 二重塀のトリックは意表を衝くものですし、山城では常識となっている石や大木を上から落す原始的な守備も鎌倉武士にとっては、卑怯と思われる戦術です。
しかし、所詮多勢に無勢で正成は死んだふりをして脱出しました。
 翌年になると正成は活躍を始め、金剛山系に十七餘の支城を築き反幕府運動を展開しました。幕府軍は次々にこれら支城を落し、千早城一つを残すばかりになります。
 千早の戦いも正成が次から次へ考えだす奇策に幕府軍は振り回され、最後の兵糧攻めも準備万端整えている楠方は少しも困らず、かえって包囲軍のほうが兵糧攻めにあっているというのは皮肉なことです。
 しかも包囲軍の経費は全て自己負担なので、諸将たちは気が氣ではなく、鎌倉幕府に不満もあったが、不承不承に参戦しているのですから、撤退、逃亡する者もでてきます。
 国中がこの結果いかにと注目している中で、大軍をもってしても小城一つ落とせない幕府の威信は日に日に低下してゆきました。
 幕府軍が千早に足止めされているうちに、隠岐島から天皇が脱出、赤松円心は挙兵し、山崎へ迫るなど情勢は幕府にとって悪化の一途を辿ってゆきました。
 結局、六波羅探題滅亡の報に幕府軍の大将阿曽治時は全軍の撤退を命じましたが、残っていたのは三分の一にすぎませんでした。
 「千早未だ落ちず」は反幕府勢力を力づけ、天下の風向きを変えてしまったのです。
 第一の訪問先、観心寺に到着しました。
 大阪府下、最古の国宝建造物である金堂での法話に煩悩多き自分を反省します。
 境内には正成首塚、新待賢門院の墓、後村上天皇御旧跡、正成が建てかけたが討死によって未完に終わった建掛塔など見るものは多く、小雨の中二百二十段の階段を上って見た後村上天皇陵の静寂に父後醍醐天皇のトラウマから放たれることなく、悲運の生涯を終えた彼が偲ばれます。
 ついで楠公夫人終焉の地、楠妣庵観音寺へ。
 草庵前で説明を受け、楠妣会館で昼食です。
 階段下にある楠母子像に唱歌「青葉茂れる桜井の::」をつい口ずさんでしまいました。
 次は千早赤阪中学校の裏の下赤坂城跡。険阻とまではいえませんが、東に金剛、葛城連峰が連なり、見晴らしのよい山城です。
 大型バスの通りそうもない細い道を奉建塔へ。大楠公没後六百年を記念して建てられたもので、ここの櫓からは下赤坂城、上赤坂城が見渡せられ、梅村会長の説明もあり、何万かの軍兵がひしめいていた当時の合戦風景が想像できます。
 この頃になると傘はなくてもよいような空模様となりました。次の郷土資料館の近くには楠公誕生地、楠公産湯の井戸もあり、その真偽はともかく、人々の正成への思慕、愛着尊敬の賜物であろうと思います。
 最後は建水分神社です。
 「水配り」(水を公平に分ける)が変化して「みくまり」になったそうで、水を司る神です。
 古来より金剛山の総鎮守神として延喜式神名帳にもこの名は載っているという古い神社で、楠氏の氏神でもありました。
中殿は春日造り、左右両殿は流れ造りという水分式建築といわれるもので、国重要文化財に指定されています。
 境内にある南木神社は正成の死後、後醍醐天皇自ら彼の木像を彫り、正行に命じて摂社を建てさせ収めたところです。
 後村上天皇より賜った「南木」の神社名は後醍醐天皇の夢に因んだのでしょう。
現在の建物は昭和十五年再造営されたものです。
 予定より一時間早く予定が終了し、帰りのバスは補足的な話題で終始し、阪本による偏見的女性論なども飛び出しましたが、無事三宮に到着しました。
 功罪相半ばする天候だったかもしれませんが、豪雨でもなく、しとしとでもなく、後から考えると前日のような暑さもなく、正成を訪ねる旅には相応しい日和であったと自画自賛しています。
 皆さん如何でしたか。  (阪本信子)