(29)利用できるなら信仰も方便

                                     阪本信子 会員
 平家物語作者は島に一人残された理由として、清盛の恣意に加えて俊寛の無信心をあげています。
 つまり、他の二人のうち、成経は熊野権現を勧請し、康頼と共に毎日参詣して帰京を祈り、平康頼は帰京の思いを綴った千本の卒塔婆を流し、その一本が厳島に流れ着き、廻りまわって清盛の目に触れ、赦免となったという話です。
 俊寛は「無信心」の人だったので、神仏の加護が受けられず赦免にならなかったというのですが、彼一人が僧侶であったというのも面白い逆説です。
 しかし、成経、康頼に本当に信仰心があったのかどうか、疑わしいのです。
 というのは熊野にせよ、厳島にせよ時に権勢を誇る平家とのかかわりが深く、何れの神も平家繁栄の守護神と見做されていました。
 しかし、清盛にしても熊野信仰は上皇法皇たちの物見遊山的熊野詣狂いにおもねり、合わせて熊野水軍への接近を意図していたのであり、厳島も京都近辺の大寺社の殆どが既に何れかの氏族の 氏寺氏神になっており、平家自身の氏神としてこれを選んだに過ぎません。
権力者の好む所におもねるのは通常の世の習いです。ましてや、成経など今まで一度も熊野へ詣でたことがないのに、この島に来て熊野権現を勧請したというのですから、その魂胆は見え見えです。
 恥も外聞もなく清盛迎合に必死の二人に対し、それを拒否する俊寛の方が私にはマトモに見えるのです。   (つづく)