(2004/11)

2004年11月のバス探訪会の報告 鳥羽伏見を訪ねて
探訪会報告
 鳥羽伏見を訪ねて
 午前8時半、三宮出発。
 参加者は四十三名、天気は快晴とは言えませんが、程ほどの観光日和です。
 先ず会長による本日の旅行のプロローグ的ガイドに始まります。幕末の寺田屋事件薩摩藩の内部抗争で、過激派の暴走を抑えるために、島津久光の意を戴して、「上意」の一声で始まった親友同士入り乱れての凄絶な血戦でした。午後のコースである寺田屋がその舞台で、薩摩藩の船宿として当時の面影を残した旅籠で、見学者も大勢見られました。
慶応三年、山内容堂の献策により、慶喜大政奉還を上表しました。しかし、薩摩藩士による挑発行為によって明治元年正月、戦いの火蓋が切られた。この鳥羽伏見の戦いは官軍方の勝利に終わり慶喜は海路江戸へ帰り、江戸無血開城五稜郭の陥落をもって戊辰戦争は終わります。幕末の新しい風は伏見に吹き荒れたのです。
 最初の訪問地は鳥羽離宮跡の城南宮です。
 この神社は多くの伝説を抱えており、神功皇后三韓征伐から帰った時、船に立てた旗を当地に埋めたといわれ、その旗に因んだ日月星の三光の神紋は珍しいものです。
古地図から見るに六十万坪の贅を凝らした離宮白河法皇から鳥羽上皇へと工事は引き継がれ、多くの建物は全て受領の経済奉仕によるもので、その皺寄せは庶民に転嫁されたのはいうまでもありません。
今や想像、推測の世界となり果てていますが、白河法皇鳥羽上皇の権力の大きさ、飽くなき欲望の増大がもたらした産物で、僅かに残る建物と、名残の地名でその規模が推測できます。昭和二十八年から足掛け八年かけて作られた平安の庭、室町の庭、桃山の庭は夫々の時代の庭園美を表し、城南宮に詣でる楽しみの一つとなっています。
 次の訪問地は恋塚寺。
 「袈裟と盛遠」の恋物語をルーツとする寺です。平家物語でも一部の異本にしか見られない物語で、その真疑を問うのは野暮というものでしょう。
 袈裟の像を挟んでのストーカーの盛遠(文覚)と夫の渡辺渡の木像を特別拝観しました。あの世では三人仲良く暮らしているのかも知れませんが、男の身勝手さが目につくのは、現代に生きる女としての解釈でしょう。
 しかし、「こんな寺があったなんて知らなかったわ。連れて来て貰って何たる幸せ」と思ったのは私だけでなく、皆さんも同じで感激の言葉を多々耳にしました。
 予定より大分早かったのですが、「食事荘京阪」で昼食。味は京都の美味たっぷりで、うるさいおばさん達にも好評でした。
 腹ごしらえも出来たところで御香宮へ。
 馥郁とした清泉が湧き出たところから御香宮と呼ばれました。主神が神功皇后で安産の神として知られていますが、きょうは七五三の子供連れで賑わっています。
 伏見城大手門を移築した表門の正面蟇股には中国の二十四孝の彫刻が四つ嵌められています。日本の親孝行は清々しいのですが、中国の親孝行は我侭な親と残酷なものが多く、国民性の違いを感じます。何れも四百年の年月を経ており、かなり痛んでいますが、当時は桃山建築の華麗さが見られたことでしょう。
 次の伏見城は秀吉居城として一時は歴史の舞台の中心地でしたが、地震、戦火で主なる建物は焼失し、家光の時代には役割を終え破却された後、誰が植えたのか桃が群生し、この地は桃山と呼ばれるようになり、桃山時代桃山文化という名称が生まれた。
 関が原前夜、この城を守り家康の天下取りの捨石となった鳥居元忠の話は、徳川武士道の象徴として後世まで語り伝えられています。
 現在の城は昭和三十九年観光会社によって建てられたもので、本来の伏見城とはつながりのない施設です。かつての伏見城天守の地には明治天皇の陵墓があります。 
最後に醍醐寺へ。 
今から千年の昔、東大寺の僧、聖宝が山科街道を歩いていたところ五色の雲がたなびいているのを不思議に思い、山へ登った。そこに湧き出る水は醍醐の美味であった。そして、ここに草庵を営んだのが上醍醐の起源です。伏見の水はいろいろなところにその効験を見せているものだなと感心します。
太平記の時代、後醍醐天皇の戦略も、逃走経路も醍醐寺系の真言修験寺であり、政治的にも歴史上に大きな足跡を残しています。
神社仏閣のガイドといえば大体テープレコーダーのように味気ないものですが、この度の三宝院を案内して下さる方は実に博覧強記で、時のすぎるのも忘れました。
慶長三年二月九日、秀吉は突然醍醐寺で花見をすると言い出しました。三月十五日が花見の本番です。それまでの約三十五日の間に七百本の桜の成木が槍山への四百メートルの坂道に植えられ、三宝院にある文化財の数々はその短い期間に疾風迅雷の速さで完成しています。朝鮮では多くの武将が苦戦しているというのに、こんな時に何を急いだのでしょうか。虫の知らせというべきか、これより5か月の後秀吉は六十三歳の生涯を終えています。三宝院の桃山風の庭園はどこからみても絵になるような設計で、とにかく石だらけの美です。多くの石の中で最も有名な藤戸石は、庭のほぼ中央、池の向こう側にあるどこにでもあるような石ですが、名石といわれると何となく有難く思われます。この石は備中児島の藤戸の渡にあり、『平家物語』の「藤戸」の源氏の武将佐々木高綱が浅瀬を教えてくれた漁師を殺した話をルーツにしています。その漁師の血潮が飛び散ったこの石は持ち主の経歴から不吉な石とされ、足利時代に京都細川右馬頭氏綱の庭にあったのを信長が足利義昭のために造営した二条第に運び、信長の死後秀吉が秀次の聚楽第へ、そして今、三宝院に落ち着いています。またこの庭は黒衣の宰相義演が醍醐の花見の後三十年をかけて完成したもので、日本の庭園の集大成といわれています。殿舎と庭は一体感の趣があり、それをつなぐ泉殿は王朝神殿造の要素を含んでいます。
 国宝五重塔は三十八メートルの塔身に十三メートルの相輪で安定感があり、天暦六年の創建当時の唯一の建物で、数少ない十世紀の遺物です。
 お土産を買いそびれた人も醍醐寺で購入し、予定の時間よりも早くコースを終了し、三宮に帰着したのは一時間ほど早く、無事今年の探訪見学会を終了しました。
 いろいろな事情でバスが大型でなく、窮屈さを感じられた方には申し訳ございませんが楽しい旅行だったとの印象を持って下さることを願う次第です。