(180) カルチュアーの違いが命取り

                         阪本信子 会員
 平家作者は平忠度を平家文化の代表者として、剛勇だけでなく、雅にして教養豊かな理想的人物として書いている。
 しかし、一の谷の合戦は平家の敗北に終わり、西の木戸の大将軍忠度は沖なる船に逃れようと馬に乗り、源氏の武士たちの中を少しも急がず敵に悟られないように馬を進めていました。
 急げば源氏方にたちまち敵と察知されます。
 源氏方の岡部六郎太は、紺地の錦の直垂に黒糸威しの鎧着て黒き馬のたくましいのに乗った、どうみても一見大将クラスとおぼしき一騎に目を止めました。
 馬に鞭をあて近づき「どういうお方ですか、お名乗りください」と声をかけると、「自分は味方だ」と振り向き答えるその口にはお歯黒がほどこされていたのです。
 これは敵だ!と六郎太は馬を進め組んだ。
 鉄漿(御歯黒)というのはこの頃は男性もやっていましたが、メンテナンスにも手間がかかり、身分の高い人に限られていました。
 言い換えれば鉄漿は高貴な身分を現すステータスでもあったのです。
 忠度は平家一門の一人として、恥ずかしくない身だしなみと思っていたのかもしれませんが、この美学は関東武士に通じるはずがなく、六郎太に恩賞首、大将首であると分からせ、奮い立たせたにすぎませんでした。
 忠度の家来たちは皆逃げ去っており、結局打ち取られるのですが、もし、このとき忠度が鉄漿をしていなかったら、また不注意にも振り向いて答えなかったら、忠度はその場を逃れられたかもしれません。
 文化の違いが命取りになったということです。  (つづく)

(179) 三草合戦は一の谷敗北のプロローグ

                         阪本信子 会員
 義仲、頼朝が同族相争う間に、平家は瀬戸内制海権を握り、京都まではあと一歩という福原の地にまで進出しておりました。
 頼朝は全勢力を平家討伐へむけ、軍勢を二手に分け、大手の範頼は伊丹、昆陽を経て福原へ、義経は搦め手として丹波路へ向かわせました。
 平家方は丹波路からの敵に対する第一の防衛として三草に布陣しました。
 三草合戦については非常に重要な戦いであるにも関わらず、史料が少なく、なかでも進軍コースは謎に包まれています。
 幸にも多くの伝説が各地に残っており、それを資料として採用せねばならないのですが、広い地域に散らばっていて、バラバラに分かれて進んだとも考えられます。
三草を守るのは重盛の息子、資盛、有盛、師盛の三人で、何れも年若く戦争を知らない世代で、経験も浅く、育ちが良い、ネームバリューはあるが、主流から外れている面々です。
 グッスリ寝ている所を夜襲されて、あっけなく敗走にいたります。
 これは富士川、倶利加羅の戦いと同じパターンで、いくらなんでも歩哨の一人も立てていなかったのか!と疑わしいのですが、負けたのは確かで、もしここで勝っていれば、一の谷合戦も違った結果になっていたかもしれません。
 そんな重要な戦いに、この程度の指揮官しかあてられない平家は、すでに勝利を放棄していると思われても仕方のないことです。 (つづく)

(178)「虚虚実実」ならぬ「虚虚虚実」の一の谷合戦

                         阪本信子 会員
 義仲が死に、次なるヒーローは義経です。
 そして『平家物語』には平家滅亡に至る合戦話が続きます。
 その合戦の中で最も華やか(?)にして、知らぬ人がいないのは一の谷合戦ですが、それについての小説、物語、伝説、エピソードなどが無数にあるというのは当然の成り行きです。
 しかし、これらについて、一々確実な裏づけがないとか、証拠となる決定的な文献、古文書がないと切り捨てていったら、殆ど何も残らないと言って良いでしょう。
 従って不確定な一の谷合戦については、想像、推察の余地が大きく、喧々諤々の論議がかわされるのも、これまた当然のことです。
 特に主人公義経に関しては確実な歴史資料は殆どないに等しく、彼について何か話そうとすれば、物語、伝承に頼らざるを得ない状況で、虚構に満ちた人物です。だから人々は好みの義経像を描くことができるのです。
 一の谷の位置についても、実際にこの地を知らない人の聞き書きとか、推察の域を出ない紛らわしい記述が多々あり、現在神戸に住んでいる人からみれば、鉄拐山須磨説はおかしいと思うはずです。
 また平家方の兵員の数から考えれば、須磨までの長い海岸線に警備の兵を配置するのは無理でしょう。
 何をしゃべっても「見てきたような嘘をいう」一の谷合戦になってしまうかもしれませんが、人は見たいように歴史を見るものです。 (つづく)

(177)  不運のDNA

                         阪本信子 会員
 義仲によって擁立された摂政師家は当然のことながら、罷免され、替って摂政職に就いたのは前の摂政基通でした。
 彼は清盛の娘婿でしたが、後白河法皇の寵愛深く、摂政に還任して氏の長者となりました。
 しかし、政治の主導権は朝廷でなく、頼朝に移りつつあったのです。
 可哀相なのは師家で、たった60日間の摂政在職に過ぎず、13歳で摂政を解かれて以来、69歳で死ぬまでの56年間無役のままで、同族同年輩の者たちが華やかな政治の表舞台で活躍しているのを横目でみながら、寂しく生涯を終えています。
 れっきとした摂関家の一員として、後の五摂家はひょっとして六摂家になるかもしれない名家でありながら、名門松殿の家系はこれによって絶えたといってよいでしょう。
 平家作者は「見果てぬ夢」と形容し、『栄華物語』に書かれている道長の兄道兼が、折角手にした関白職を流行病のため、たった7日間で失ったのと比べ、師家の場合は関白としての除目、朝廷儀式もあり、道兼よりはマシだと書いているのは貴族のハシクレらしい作者の考え方です。
 ところで、父基房は摂関家の次男に生まれながら、平家に疎まれ、「殿下乗合」にも見られる不運な摂政、関白でしたが、その子師家も時勢に翻弄された悲劇の摂政です。
 運が悪かったと言えばそれまでですが、悲劇をもたらすDNAがあったとすれば、それは言い換えれば何等かの能力不足を指摘するものであり、自らにその責任は帰するところです。 (つづく)

(176)  死ぬことの意味

                         阪本信子 会員
 『平家物語』は「死の文学」ともいわれますが、義仲の死を初めとして、一の谷合戦、壇ノ浦、平家一族最期の人六代の処刑に至るまで、いろいろな死に様が描かれています。
戦いに臨むとき、武士たちは自分の死を犬死にしない為、はっきり言えば、自分の死が子孫に何らかの利益をもたらす事を願って死にます。
 「タダ」では死にたくありません。
 しかし、いくら勇敢に戦い、壮烈な討死をしても何の報いもない場合があります。
 つまり負け組に属しているケースですが、その場合も出来得れば一族総てが一方のみにつくと言う事はなく、例えば兄弟、親族が敵味方に分かれるという方法で、一族全滅を防ぐ保険としています。
 しかし、義仲の家臣樋口兼光の家人、茅野太郎光広は弟が源氏方にいました。彼らはそれほどの大物でもなく形勢不利となれば、弟のいる源氏に降伏するという手もあったはずなのに、自分の壮烈な最後を信濃に残した息子に伝えて貰いたいと、見事に戦って討死しました。
 計算づくのこの時代に、男のプライドを貫いた感銘を受ける話です。
 近代戦からも感ずるのですが、戦争は死ぬことに意味を持たせ、平和は生きることに意味を持たせるメカニズムがあるような気がします。
 しかし、昨今は平和な時代なのに死にたがる人が多いのはどうしたことでしょう。
 まさしく、戦乱の時代なのかもしれません。  (つづく)

(175) 英雄は死に方も英雄らしく

                         阪本信子 会員
 木曽の風雲児義仲は、やはり京の空気の中では生きられませんでした。無知な無骨者として侮られ、追い詰められてゆきます。その彼を再び英雄としたのは、平家物語の「木曽最期」の名文であり、そこに登場している今井兼平なのです。
 この部分は『平家物語』の数ある「死」を書いた中で、最も感動を与える章段といわれ、私が『平家物語』に足を踏み入れたのも、この情緒的な美文に影響されたところが大きいのです。
 彼の最期は平家物語を貫く「亡びの美」の源氏バージョンですが、源氏の亡びの美はここだけです。
彼には地獄極楽など論外で、願いは只一つ、「乳兄弟の兼平と共に死にたい」でした。そして、その願い通り二人がパッタリ出合います。(出来すぎかな)
 兼平は自分が敵を防いでいる間に、あの松林でご自害をと勧めました。
時は2月20日、義仲は薄氷のはった深田に馬を乗り入れ、鞭をあてても動かず、兼平は如何と振り向いた真っ向、内兜を矢が貫いた。英雄の死に相応しい真っ向の矢です。
 でも、あの頃馬の首が見えなくなるほどの深田があったかどうかは疑問です。
 結局、義仲ともあろう者が、名も無き下郎に打たれた理由として、作者が設定した死の舞台なのでしょう。
 孤軍奮闘の義仲の悲劇はこれをもって終りますが、欠点だらけの義仲が大好きなのは、私自身欠点の多い人間で、共鳴する所が多かったからかもしれません。  (つづく)

(174) 「木曽勢奮戦の碑」が正解

                         阪本信子 会員
 源平合戦の花舞台、「宇治川の先陣」は実は無かったことで、作者の創作だったといえば、ウッソーと言いますか、がっかりしますか、それともやっぱりと思いますか。
 残念なことにこの話はどの古文書にもない、つまり裏付けは何もない作者のフィクションなのです。
 平家物語の中にはネタ元の話よりも、それを基に作者が創造した話の方が有名になっているケースが多々あります。
 宇治川の先陣話もその一つです。
 ネタ元の先陣争いは、これより37年後の承久の変の時で、『承久記』によれば、当事者は佐々木高綱の甥信綱と芝田兼義の二人だったのです。しかし、この場合の先陣判定は難しく、決着はどうなったのかわかりません。
 そして、頼朝が馬を与えたのは、源平合戦の藤戸の戦いの時で、高綱の兄盛綱がその人です。彼はその馬に乗って、藤戸の浅瀬を渡り、手柄をたてています。
 但し、義経勢と義仲勢の戦いが宇治川であったのは史実で、ここで一言いいたいのは、義仲勢は500騎、義経勢は25,000騎といわれ、50倍もの敵と戦った木曾勢の健闘には少しも触れず、麗々しく「佐々木、梶原の先陣争い」というショーとして語られていることに哀れを催すと共に、憤懣やるかたない私なのです。
 今たてられている虚構の『宇治川先陣の碑』より、実際にあった『義仲勢奮戦の碑』を建てて頂きたいものです。(つづく)